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   彼氏とは別れた。  別れ際に殴られたけれど、なんとか別れることができた。  狭いアパートを借りて、椎名が紹介してくれた工場でのバイトも始めた。  アルコール依存症という病気とは(病気、という言葉を椎名は強調したから、ああ俺は病気だったんだと思った)一生付き合っていかなくてはならない。  一滴でも飲んでしまえば振り出しに戻ってしまう。  飲みたくなったら話をしよう、と椎名は言った。そして俺が連絡をすると本当に駆け付けてくれた。  俺はポツポツと父親のことを語った。椎名は頷きながら俺の話を聞いて、時折、 「幸男さんはどう思ったの?」 「お父さんのこと、憎かった?」 「なんで殴り返さなかったんだろう?」  と、昔の俺の気持ちを問い直してくる。  椎名と話をしていると、俺の基礎を彼と二人で組み替えてゆくような、そんな感覚がした。    飲めなくてイライラすることも多かった。感情が抑えられない日は椎名にも暴言を吐いたし、せっかく駆け付けてくれた彼を追い返すこともした。  一度椎名を殴ってしまったときは、彼は毅然と俺の手を掴んで、 「俺は殴られにきたんじゃないよ。手を出すなら、今日はもう帰る。また明日来るね」  と言って帰ってしまった。  俺は呆然となって、それから椎名はもう来ないんじゃないかと疑った。  明日来るね、という言葉が信じられずに、一睡もできなかった。  しかし椎名は翌朝、俺の家を訪れた。なにごともなかったかのように、いつもの爽やかな笑顔で。  そのときの安堵を、どう表現すればいいいだろう。  俺は子どものように泣いたし、椎名はそんな俺の背をずっと撫でてくれた。        椎名からは幾度か断酒会の集まりに誘われた。  自分と同じ依存症患者と交流することが俺にとって有益だと椎名は考えているようだが、俺は断り続けた。椎名だけで充分だという気持ちがあった。  生活は立ち直ってきている。仕事も続いている。冷蔵庫にも戸棚にも酒はない。  酒の代わりに、押し入れには椎名の分の布団がある。酒が飲みたくてどうしようもないときは椎名を呼び出し、泊まってもらうことがあるからだ。  なんとか人並みの生活ができるようになって、このままトントン拍子にいくのではないかと楽観的な考えすら湧いてきた、そんな折だった。  ふと、椎名に渡された断酒会のプリントが目に入った。  行くつもりはなかった。けれど、一度ぐらい顔を出した方が、椎名が喜ぶのではないかと思って会場へ向かった。  そこで俺は、現実を見てしまう。  椎名が。  俺以外の患者の話を、親身に聞いているところを。  頭を殴られた気がした。  そうだ。椎名は相談員だ。俺と彼の繋がりは、患者と、患者を立ち直らせるための相談員。それだけなのだ。  ショックだった。椎名にとって俺はいち患者だ、という事実よりも、そのことを忘れていた自分にショックを受けた。  俺は来た道を戻り、途中のスーパーで酒を買って飲んだ。久しぶりのアルコールだった。  脳がふわふわとして気持ちいい。勢いのままに出会い系サイトを検察してすぐに会えそうな男にメールを送り、ホテルへ行った。  ひどくしてくれ、と言ったら縛られて殴られた。  そうだ、俺は本来こういう扱いを受けるべき人間なのだ。久しぶりに味わう暴力に陶然となる。  ホテル代貰ってくぜ、と財布から勝手に金を抜き取って、男が先に帰っていった。  シャワーを浴びる段で酒は完全に抜けていた。  外はもう夜だ。  白い街灯には羽虫が群がっていて醜悪だった。 「こんばんは、幸男さん」  椎名が俺の前に立ちふさがり、どこへ行ってたの、と問うてくる。  ボロボロの俺の見て椎名が眉を顰めた。 「関係ねぇだろ」  そう突き放しても、椎名は離れてゆかない。そのことはもう、わかっていた。  俺が患者である限り。  椎名が俺を捨てることはない。 「関係なくないよ。心配した」 「あっそ」 「どこ行くの? コンビニ?」  椎名を置いて、俺は歩いた。白い光の溢れるコンビニは、もう目の前だ。 「なに買うの?」  椎名の声が追いかけてくる。  俺は振り向いて、片頬で笑った。  酒が欲しかった。  酒が飲みたくて仕方なくて、どうしようもなくて、笑った。  椎名の手が、するり、と俺の手を握った。 「アイス、食べたいな」  しずかな声が、呟いて。 「幸男さん、一緒に食べようよ」  明るい笑みを顔中に広げた椎名が、やさしく、俺を誘った。 「アイス食べて、それから、幸男さんの話を聞かせてよ」  胸が苦しくなった。  握られている手が、熱い。  この男が好きだ、と、不意に思った。  俺を患者としか見ていない、この男のことが。  好きで、好きで、好きで。  苦しくて。  三十年の人生でいま、初めて、恋をしたのだと知る。  光にたかる虫は醜悪だ。  その醜悪なものに成り果てた俺は、繋がれた手もほどけずに、コンビニへと歩いた。    椎名が俺を好きになることなんて、絶対にないだろうから。  恋心を自覚した瞬間に、これは終わりの始まりなのだと、わかった。  俺の初恋は生まれたこのときから、死へ向かうだけなのだ。        
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