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四年前の一月の終わりころ、摩莉子は陽子と連れ立って、池沢の家に遊びに行った。新婚の池沢に子供が生まれたため、出産祝いに訪問したのだ。
当時の池沢は授かり婚で、式も披露宴も挙げずに籍を入れただけの新婚生活だったが、学生時代から交際していたという二人は、とても幸せそうだった。居間の壁際には、沢山のお祝いの箱が几帳面に並べてあった。
二間の奥の寝室に置かれたベビーベッドでは、生後三か月の赤ちゃんがすやすやと寝息を立て、新婚家庭は幸せな空気につつまれていた。
妻の綾乃は出産後体調を崩していたが、摩莉子と陽子がプレゼントを手渡すと、とても喜んだ。プレゼントは、おくるみとベビー服のセットだ。
「うわあ、こんなブランド品、自分じゃ変えないしすごく可愛いです。お出かけに絶対着せますね。ありがとうございます」
「よかったー。ベビー服ってどれも可愛いから、三時間くらい迷ちゃって」
「その甲斐ありましたね、川嶋さん」
「さっそく合せてみますね」と、綾乃がベビー服を手にして、ベビーベッドに向かう。
摩莉子も赤ちゃんを見ようと思い、腰を上げかけたが、突然二の腕の産毛が逆立ち、背筋に悪寒が疾った。部屋の中は、赤ちゃんが風邪をひかないように暖房が効いていたが、背中を氷水が這うような悪寒だ。思わず身震いした。すると綾乃の背後に、黒い靄のような人型の影がゆらりと漂いはじめた。
摩莉子が霊視すると、その靄は、女の生霊だった。
長い黒髪の女の生霊が恨めしそうに、じっと綾乃を見ている。綾乃を憎むような霊気に寒気を感じ、摩莉子は両腕で自分の躰をさすった。
そのとき、「お二人さん、コーヒーでもどうぞ」と、池沢に声をかけられて、摩莉子は霊視をやめた。
四人は居間の座卓を囲み、和やかに雑談を始めた。妻の綾乃はおっとりしたやわらかい雰囲気の人で、人が良い池沢とお似合いの夫婦だった。
摩莉子は生霊のことを二人に話すべきか迷ったが、口を噤んだ。赤ちゃんが生まれたばかりの幸せに水を差すようなことは憚られたし、霊能力のことは会社の誰にも明かしていなかったからだ。
摩莉子が悲報を耳にしたのは、それから数週間後だった。
深夜、綾乃と赤ちゃんが就寝中に寝室から出火して、アパートの二階が全焼したのだ。煙に巻かれ逃げ遅れた綾乃と赤ちゃんは還らぬ人となった。池沢が出張で家を空けている間に起きた悲劇だった。
そして、あのとき視た生霊が千里だった。千里は新婦として、池沢の隣に座っていたのだ。
朝から感じていた忌避感の正体がわかり、摩莉子はさらに暗澹たる気持ちになった。
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