プロローグ

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プロローグ

 昔々あるところに、美しい容姿を持つ娘がおりました。  糸のような細く長い金髪に、雪のような白い肌。空のように澄んだ青い瞳を特徴とした、まるで人形のような可憐な娘でした。  娘は森の奥にひっそりと佇んだ教会に、一人で暮らしています。  娘には、家族はいません。村から遠く離れたこの場所には、滅多に人がやって来ることもありませんでした。  毎朝神へと祈りを捧げ、森に出ては木の実や果実を摘み、洗濯や掃除をする。気が向くと絵を描くこともありました。黒い鉛筆で動物や植物の絵を描くことが、娘にとって一番落ち着く時間でした。  孤独だった娘は、人よりも感情を表現することが苦手です。  笑うことも、泣くことも、怒ることもせず、人形のような表情で毎日を生きていました。  誰も、彼女のことを知りません。誰も、彼女の存在に気づきません。  娘はずっと一人ぼっちでした。  ずっとずっと一人で過ごしていました。  雪が積った寒い寒いとある夜。  娘は風邪を引きました。高熱に魘され、咳が止まりません。  風邪をこじらせた娘は、初めて森を抜けて村へと行きました。  小さな村にある医者の家を訪ね、薬を貰いに来たのです。  しかし初めて彼女を目にした村人達は、彼女を「悪魔」と呼び、石を投げました。  この村の人々は全員が黒髪だったのです。怖いほど美しい金色の髪を持つ娘を余所者扱いし、薬を渡すことをしませんでした。  心も体も傷を負った娘は、体を震わせながら教会へと戻りました。  薬が貰えず、娘の病態は悪化します。  病が体を蝕み、命に危険が迫っていました。  朦朧とした意識の中で、もうすぐ死を迎えることを娘は感じ取ります。自分の体がどんどん冷たくなっていくのがわかりました。  その瞬間、娘はまだ生きたいと強く願いました。   死にたくないと、強く、強く、強く、願いました。 ――――「その願い、叶えてやろうか」  すると、現実と死の間の意識の中で、黒い影が現れました。  頭に生えた二つの角に、黒い蝙蝠のような翼、血のように赤い瞳に、鋭い爪と長い尻尾。  不気味な姿をした、一匹の悪魔が娘に話しかけてきたのです。  二度目の人生を与えてやる……と。  悪魔は静かに告げると、自分の心臓を胸から抉り取り、娘に渡しました。  ドクドクと脈を打つ赤い心臓に、娘は目を奪われます。 「この心臓さえあれば、お前は永遠の命を手に入れることができる。病気になることだってない。年を取ることだってない。この心臓を剣で突き刺されない限りは……」  悪魔はにやりと笑いながら、自分の心臓と娘の心臓を入れ替えました。  不思議なことに、悪魔の心臓を体の中に取り込んだ途端、娘の体はみるみるうちに元気になりました。意識は戻り、もう苦しくありません。  悪魔は鋭い指を一本出し、『契約』を交わすよう娘に提案します。  世界中の勇気ある若者達が、悪魔を殺そうと常に探し回っているとのこと。  悪魔の最大の弱点が、この心臓。  心臓を刃物で突き刺されれば、さすがの悪魔も命が終わります。そこで、悪魔は自分の心臓を隠す場所をずっと探していたのです。 「生きる変わりに、ワタシの心臓を永遠に隠し続けると契約をしろ。誰とも関わらず、誰とも心をかよわせず、今までのように、一人で生きればいい」  子供を喰らい、街や村を壊し、時には戦を起こす悪魔。人々の苦痛を快感とし、不幸を楽しんでいるこの醜い存在の味方になるということ。誰もに命を狙われている悪魔を、助けるという契約でした。  娘は少し考え込み、すぐに決心しました。 「わかりました」  例え世界を敵に回しても、それでも……娘は生きたいと願いました。  契約は成立。悪魔は三日月のように口元を吊り上げ、娘の冷たくなった心臓に齧り付きました。娘の心臓は、あっという間に悪魔の喉を通りました。   娘の命のポンプは、悪魔の心臓を頼ることしかできなくなりました。 「ところでお嬢さん、あんたの名前は?」  悪魔は手の甲で口を拭いながら、娘に尋ねました。  娘は自分の胸に手を当てながら、大きく深呼吸をします。悪魔の心臓は、氷のように冷たいと感じました。  それでも、不快な思いはしません。喜びも、悲しみも、恐怖も、何も浮かばない。「無」だけが娘の感情を支配します。   娘は口を開き、忘れ去られた名前を唱えました。 「私の名前は……」  小さな声が、古びた狭い部屋に溶けます。  娘にとって、 気が遠くなるような二度目の人生の幕が上がりました。
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