終わり屋はさよならを告げない

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 つまさきは何にも触れなかった。  踏み出した足の先には何もなかった。かくんと膝が折れて転びそうになった時、右肩が抜けそうな痛みを感じた。 「おっと。危ない危ない」  軽い声がして、支えられたということを理解した。顔が熱くなる。ゆっくり視線を上げると、またあのにっこりした笑顔があった。 「大丈夫? 良かった、間に合って」 「あ……」  すみませんと言うべきなのか、ありがとうございますと言うべきなのか判らなくて、言葉が喉でぶつかって出てこなかった。マスターさんは、わたしの手を握り直すと、反対の手でぽすん、と頭を撫でた。 「勝手に出て行かないで。ここは、僕でも見失うと見つけられないから」  マスターさんの口ぶりはどこか硬かった。少し、怖くなる。恐る恐るあたりを見渡して、なんとなく、判った。  その場所は何もないところだった。ううん、ちょっと正しくない。夜の闇のような、海の底のような、そんなゆらゆらとした空間が広がっていて、その中にさっきまで見ていたような色々なものが漂っている。 「ここ、は」 「終わり屋の外。僕らは心の海なんて言ってるけどね。実際は何か僕らも判らない。ただここにあるのは……いるのは、行き場を探している何かたちだ」  その瞬間、さっと視界が茜色に染まった。それは一瞬だけだった。視界を茜色一色に染めたのは、すぐそこをゆったりと渡っていく大きな大きな金魚らしかった。 「……おっきい」 「ま、目で見るものの大きさや形は、ここでは何も正しくはないから」  くすりと、マスターさんが微笑んだ。  それから、わたしの目を真っ直ぐ見つめてこう言った。 「戻りたくない?」 「……だって」 「金糸雀か」  頷きもせず、わたしは黙りこくる。それをマスターさんは肯定と受け取ったらしかった。わたしの手を握ったまま、一歩、足を踏み出す。慌ててついていくと、今度は視界が真っ青に染まった。  真夏の空の色。吹きつけた潮の匂いに息を止めたら、今度は甘い色の花びらが降って来た。視界がぐるぐると変わる。目が回りそう。隣に立つマスターさんの腕を握りしめてしまう。彼は反対の手でそっと、空中を撫でた。 「あ……!」  空中に踊っていた花びらが、五線譜のように並んでいく。もう一度。マスターさんが、空を撫でる。そうしたら、もうそこは、何もない空間じゃなかった。  何千、何億回も踏まれ続けたせいですり減っている色煉瓦の歩道。少しぼこぼことした白い漆喰の壁の家々が幾重にも重なるように連なっていて、そのどれもがお揃いのような赤茶けた丸い屋根をかぶっている。まるで絵本みたいな町並み。夢みたいな世界。だけどここは。わたしにとっては。  とっても、懐かしい場所だった。 「そこの、角が定位置だったの」 「そう」  わたしの唐突な言葉にも、マスターさんは驚かなかった。 「いつも、一緒だった。それなのに金糸雀は、わたしを捨てたの」 「そのようだね」  無造作に頷いて、マスターさんはその景色の中の一軒の家へ歩み寄った。扉に手をかける。 「でも彼は、終わり屋に来た。この心の海の中で僕の店を見つけ出したんだ。そして、君もまた」  扉が開かれる。  マスターさんの声が体の真ん中を走り抜けていった。 「ようこそ、終わり屋へ。僕は影法師。終わりの影を映す者」  ガツッ!  誰かの放った石粒が、金糸雀の金色の頭に当たって跳ねた。  金糸雀!  わたしは叫んだ。金糸雀は、細い節の目立つ指で頭を抑えた。少し、前かがみになってうめき声を漏らす。金糸雀! もう一度呼びかけると、金糸雀は薄い唇を開いていつもの透き通った声で大丈夫と呟いた。嘘。だって頭から、赤いものが流れている。  汚い笑い声が弾ける。言葉が刃物のように、突き刺さってくる。  今どき流行らないんだよ、歌唄いなんて。  古臭い男だね。  ああ、なんて汚い言葉なんだろう。ひとが紡ぐ言葉なのに。ひとが紡ぐ音なのに。どうして。金糸雀が紡ぐ音は、言葉はとても綺麗なのに。金糸雀と同じひとから紡がれる言葉だというのに、この言葉はどうしてこんなに汚くて、醜いのだろう。  金糸雀はそれでも怒らない。いつもそう。おどけたふりをして、するりと汚い言葉をくぐり抜ける。  それじゃ、一曲聞いてもらうかなぁ。うっすら流れていた血を拭って金糸雀が言う。わたしをそっと、撫でながら。さあ、付き合っておくれ。わたしはそう言われると拒むことなんて出来なかった。  金糸雀のために、わたしはずっと音を紡いできたのだから。金糸雀の手で音を奏でてきたのだから。  体が震える。空気を震わす。世界を、渡っていく。  金糸雀の喉が鳴る。わたしを包んで広がっていく。声と音が混じりあう。その瞬間瞬間が、たまらなく気持ち良かった。その時があれば、どんな汚い言葉の中でも、わたしたちは清らでいられた。  金糸雀の歌と、わたしの音色があれば世界は姿を変える。遠い昔の命がけの愛の場へ。思いと思いがぶつかった戦の場へ。めくるめく物語の世界へ飛んでいける。その力があった。  それなのに。  別れの歌の最中、金糸雀の手がわたしから離れた。  ――え?  支えを失ったわたしの体は、色煉瓦の地面へと倒れこむ。衝撃と痛みが襲ってきて、わたしはただ倒れただけじゃないと気づく。誰かに、蹴られたのか。  やめろ!  金糸雀の声が聞こえた。いつもと違う切羽詰まった声だった。  やめろ、やめろ!  金糸雀が叫んでいる。叫びながら、どこかへ連れて行かれようとしていた。遠ざかっていく金糸雀の姿にわたしも叫んでいた。ひとにはきっと聴こえない。でも金糸雀には届いたはず。だけどわたしはひとみたいに、手を伸ばすことも追いすがることも出来なかった。  金糸雀。金糸雀。金糸雀。  いとしい名前を繰り返す。ただ地面に横たわったまま、傷ついた体のまま、繰り返し呼んだ。  体が裂けたみたいに痛い。これは物理的な痛みだろうか。それとも。  いつまでも、わたしは待った。待って名を呼びつづけた。夜が来て、朝が来て、また夜が来て。秋が来て冬が来て、また春が来て。  それでも金糸雀は帰ってこない。  ――どうして?  うすぼんやりとした、凪いだ水面のような心の中に、問いかけだけが残っていく。  がつっと、また体に衝撃が走った。また誰かに蹴られたようだった。  何だこの汚い楽器。  ハープか? 誰かが捨てたんじゃないの?  ――捨てた?  その言葉がぽつんと水面を揺らした。波が広がっていくのと同時に、なんとなく、判った。  そっか。今、判った。  金糸雀が呼んでもこないのは、わたしを捨てたからなんだ。  わたしが、捨てられたからなんだ。。  言葉が水になった。わたしを叩きつけた言葉はそのまま雨滴となって空から降り注いできた。水は嫌い。音が壊れちゃうから。でも。今はその水に救われた気分だ。  ねえ、雨滴。わたしの全身を叩きつけて。  溶けちゃうくらいに、濡らしていって。  何かが割れたみたいだった。  弾ける水音と同時に目が覚めた。 「ああ……」  声が漏れた。体が震える。そこは終わり屋だった。わたしの前に、カウンターがあった。そしてそこにいた。一筋だけ赤の混じった、鮮やかな黄色い羽根を持つ小鳥。ピチチッとカナリアが鳴く。 「ゴめンナァ。本当ニ ごめん ダナァ」 「かなり……あ」  小さなくちばしがわたしの涙をつついた。 「ワッシ 何度も何度モ 行こウとしタンだナァ。アンタの所 へ 行きタかっタ ンダナァ」  ガラガラのしわがれた声でカナリアが鳴く。全く美しくない声で、鳴いている。 「辿りつけなかったんです」  女の子の声に顔を上げると、カウンターの中のアンリちゃんが少しだけ微笑んでいた。 「辿りつけなかったんです。ね、金糸雀さん」 「ダナァ」 「だけど」  と、今度は男性の声。マスターさんが、カウンターに頬杖をついて微笑んでいた。細く長い指で、自分の頬をとんとんと叩きながら。 「ずっと君を呼んでいたんだね。おかげで声がガラガラだ」 「ハハッ そうナんダナァ」  恥ずかしそうにカナリアが鳴く。その黄色い姿に手を伸ばす。手を、伸ばすことが今なら出来た。小鳥はわたしの手のひらに乗って、幸せそうに目を細めた。すべすべの羽根が気持よくて、少しくすぐったい。 「ねぇ、ずぶ濡れレディ。ガラガラの金糸雀」  マスターさんが笑って言った。 「今回のお代は君たちの音で、といきたいんだけど。どうかな?」 「あたしも聴きたいです」  アンリちゃんにも頷かれて。  わたしとカナリアは顔を見合わせて大きく笑った。  カナリアの声はガラガラだ。しわがれて、いつもみたいに響かない。濡れそぼったわたしの音も、歪んで滲んでしまっている。  けれど、カナリアは唄った。高く高く、喉を震わせて。わたしを小さな羽根で撫でながら。  目を閉じて音の波に体を揺らす。心地良く混じっていく。しわがれていても、ガラガラでも、カナリアの声は金糸雀の声だった。終わりの音はいつも少しだけ跳ねる。スラーが人より優しく伸びる。音の粒がまるく、まるく、広がる。  すっと目を開ける。金色が目に飛び込んできた。わたしの大好きだったお陽様色の髪。春先の青空の瞳に、すこしだけぷっくりとした唇。優しく目を細めて、大きく歌っている。  金糸雀だ。  金糸雀が、あの頃の金糸雀のまま、そこにいた。わたしを爪弾いて歌っている。  あの時最後まで歌えなかった別れの歌は、今、途切れることなく響いていく。  ああ、なんて。  ――美しい声。  ぱちぱちと、ささやかな拍手が聞こえた。  薄らいでいく視界の中で、マスターさんとアンリちゃんが手を叩いていた。 「お代は確かに頂戴しました」  マスターさんが微笑む。わたしを大事に抱きしめた金糸雀がちいさく頭を縦に振った。 「それでは、いってらっしゃいませ」  恭しくマスターさんが頭を下げる。金糸雀は一度深く頭を下げると、店の扉に手をかけた。真鍮の取っ手を押して、外へ。  同時に視界が白く染まった。少しだけ怖かったけれど、大丈夫。何もない場所でも金糸雀の手はわたしを強く抱いていたから。  ねぇ、金糸雀。  今度はずっと一緒にいようね。  カランカランと鐘が鳴る。  ふんわりとあたたかい紅茶の香りがくすぐって、消えた。  ――fin.
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