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その日はからりと晴れていた。
それはもう、嫌味なほどに晴れ渡っていて、空は真っ青、入道雲は真っ白、桜の枝はすでに緑を深めつつあった。
梅雨明けの暑い日曜日に、ラフな白シャツで汗を拭って、私はいつものように市の図書館へ赴いていた。ただし目的は本ではない。本よりも素敵な経験をするため、私は毎週そこへ通い詰めた。
冷房目当ての客の間をくぐり抜け、専門書を返却しては一目散にバルコニーへ向かう。立て付けの悪い扉の立てるキイという音の後に、先客一名様は、本から顔を上げてひらりと手を振った。どきりと、私の心臓が鳴った。
「やあ、思ったより遅かったね」
クラスTシャツのようなデザインの白Tシャツ、茶色のズボン、白のサンダルを履いて、肩までの髪を邪魔とばかりに払いのける様は、若い女性にしては無造作すぎるほど無造作な格好である。特に汗ばんだ首元や剥き出しの足首なんかは、私の目の行き場のため、どうにかしてくれないだろうかと密かに思う。もちろん、当人に言うことはできないのだが。
「時間通りと言ってほしいな」
「まあそうだね。しかし、今日の荷物はそれだけか。いつものカメラはどうしたんだ」
「今日は敢えてスマートフォンによる撮影に拘ってみようと思うんだ。邪魔はしないから、いつも通り本を読んでいてくれればいい」
私がそう言うと、彼女はいつものように読書を始めた。私はスマホを取り出して、カメラ機能をオンにした。
そのバルコニーにはやたらと豊富な植物と、やたらと豊富な虫がいた。ゆえにこのバルコニーに近づこうとする物好きは私と彼女くらいしかおらず、毎週日曜日は約束を交わすわけでもなく会って、思い思い好きなことをし、時折会話して、自由に過ごした。
それだから私は彼女の連絡先さえ知らなかった。ただ知っているのは、彼女の苗字が中島ということだけである。彼女の好きな作家、中島敦と同じ苗字だ。苗字も被らない私は、密かに想いを抱く彼女と同じ苗字を持つその作家に、時折無駄な嫉妬など抱いたりする。まったく、ままらないものである。
「しかしいい天気だ」
彼女の言葉に釣られて、私は写真を撮る手を止めてバルコニーの外に視線をやった。そこには大きな入道雲があって、たしかに素晴らしくいい天気だった。
だからだろう、彼女の声はいくらか弾んでいて、横顔もずいぶん明るかった。しかし、その次に続けられた言葉が、私は心底気に入らなかった。
「心中日和だ」
何を思ってか呟かれた言葉は深く胸に残って、嵐のような蝉の声にもかき消されることがなかった。
彼女は一言で言うなら、マイペースな人だった。それは特徴的な口調からもいくらか推測できるところがあるが、その性質は特に選書によく表れていた。
たとえば、ある日銀河鉄道の夜を読んでいたかと思えば、次の日には日本経済を救う三つの掟などという新書を手にしている。かと思えば真冬に小学生向けの怪談噺のシリーズ本を、奇数巻だけ順番に借りて、バルコニーでは別のシリーズの偶数巻に顔を埋めていたりする。
彼女の気まぐれは柔軟かつ予測不可能で、写真を撮りながらそんな彼女を密かに見ているのが、私の楽しみであった。
「江崎くんに質問がある。恋愛とはなんだろうか」
「まずどのような観点から質問しているのか明確にした上で、質問する理由を説明してほしい」
あの「心中日和」発言から数週間経った夏の日に、うるさい蝉の声を聞き流しながら、我々はまた対話をしていた。彼女の疑問はどうやら、巷で話題の恋愛小説を読んだ際に生じたもののようだった。
「これは失敬。しかし、特に指定があるわけでもない。つまるところ江崎くんの恋愛経験について聞かせてほしいと思うのだよ」
「何故」
「単に興味があるからさ。知的好奇心は学びの原動力だよ」
「ふむ……」
好きな人に恋愛経験について尋ねられているこの状況。いささか悲しい気持ちを誤魔化して、私は適当な過去の恋愛を思い出してそれらしい言葉を練り上げる。
「私にとっての恋愛は暇つぶしだった気がする。双方持て余した時間を、使い道に困ってお互いで消費することを契約した、そんな関係が恋人だと思う」
「実に情緒のない答えだな」
「そう言う中島さんの恋愛観こそ聞きたいものだね」
そう言うと彼女は珍しく言葉をためらった。
思わず顔を振り返ると、彼女はまるで生娘のように、うっすらと頬を紅に染めていた。
私は軽率に尋ねたことを、少し後悔した。我が可哀想な恋心が、ペキっと情けない音を立てた。
「これと決めた人が、私の生を願ってくれていたら、どれほど嬉しいだろうと思う。私を心から好きだから、私に生きていてほしいと思ってくれているのでは、と」
「なかなか重いな。私の恋愛観の軽さとは比べ物のならない」
「それも一つの愛の形、ということだろう」
蝉の声はうるさく、梅雨が明けてからまだ一度も雨が降っていなかった。私は彼女の「心中日和」発言のことを再び思い出して、ふと疑問が湧き上がった。
「心中日和、などと言うから、中島さんは死を共にすることに愛を見出しているのかと思っていた。それこそ、『死んでもいいわ』が愛の告白であるように」
「それも一つの愛の形だろうけれど、私の好むものではないな。心中のような溺れるほどの愛より、むしろ、か細くても一緒に居続けてくれるような愛の方が好ましい」
「生き続けること、が大事ということか」
「そうだな」
私は少しの安堵と共に、先程の彼女の珍しい表情を写真に撮らなかったことを後悔した。だが彼女があの「心中日和」発言とは逆に生きたがっていて、これからもここへ来てくれるのであれば、また撮る機会もあるのではと未来に期待することにした。
しかし、結局、彼女の恋愛観を聞いてもいまだ私の中であの「心中日和」発言は消化しきれていないようだった。彼女がバルコニーの手すりに手をかけるたびに、私は彼女が手すりを越えて真っ逆さまに落ちる様子を想像した。脳内で何度も繰り返す、好きな人が死ぬ想像は気分の悪いものであり、私は、心なし頭が痛むようになってきた。
真夏の蒸し暑い空気と姦しい蝉の鳴き声は頭痛をむしろ促進させた。
そしてとうとう頭痛薬まで服用した日曜日、心中日和だった空は唐突に黒い雲で覆われ、激しい雨が降り出した。土砂降りの雨の中、彼女が本に防水カバーを被せるのを傍目で見ながら、最近の頭痛の原因は単なる低気圧のせいだったのではと思い至った。
「ひどい雨だな。梅雨明けからずっと晴れていたのに、これでは本が痛んでしまう」
「夕立だろう。短期集中型の雨だ、そう長くもないだろう」
アルミ製の手すりの上を水飛沫が跳ねる。向こうに見える景色がひさしぶりに曇っているのを目にすると、最近「心中日和」のことばかり考えていた頭に少し晴れ間ができ他ことに気づいた。どうやら私は、ここ数週間で、晴れというものがすっかり嫌になってしまっていたらしい。
それも仕方のないことだろう。心中日和と口にした彼女は、晴れが本心から好きなのだとわかる笑みを浮かべていた。ともすれば本当に心中してしまいそうだった。頭の中で蝉が鳴き出し、あの日の景色が思い出される。
彼女があの日見ていた空は青かった。入道雲は格別白かった。眩しい太陽光が容赦なく降り注いでいて、笑みを浮かべた彼女が、今にも夏と真っ青な空へ沈んでしまいそうに見えた。
「ずっと大雨だったらいいのに」
落ち続ける大きな雨粒が、一滴、足元に落ちた。
彼女は勢いよくこちらを向いた。見開かれた瞳が鳩の目のようにくりりと丸く、その頬がかすかに赤かった。
頬がかすかに赤かったのだ。
「え」
間抜けな鳴き声が一つ、私の口からこぼれ落ちる。おそらくカエルのようなあほヅラをしているであろうその顔を凝視したまま、愛しい人は仄赤い頬をますます赤く熟れさせて、雨音の中に小さく、小さく、言葉を溢した。
「私も、同じ気持ちです」
激しい雨は、まだまだ止みそうになかった。
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