しののめを見ゆ

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 顔を上げた平太へ、くねりと首を左右に傾げるように回す。硬そうな尖った鼻先が平太を嗅ぐように近付いてくる。 「神様がいるのは人間だけだもの」  蛇がパチリと一度瞬きをする。丸く黄色い目がきょろりと平太を上から下まで眺めてくる。それが蛇の細長い舌に舐められたかのようで、平太はそっと身震いした。 「神様っていうのは『いる』と思えば居るものなんだよ。僕達にとって『いる』か『いない』かはそこにあるかどうかでしかないの。見渡して、そこに餌が居たなら『いる』、居ないなら『いない』、それだけ。『いるかもしれない』っていう考え方はないの。人間だけが、見ることすらできないものにも『いる』って言うんだ」 「……言ってることがよくわからないよ」 「君はリュウジンサマがいると思ってるんでしょう?」  スス、と蛇は胴をうねらせて平太へと近付いてきた。先程より頭を高く、背を伸ばしつま先立ちをするように平太の顔へと顔を近付け、そしてその黄土色の目で平太を見上げた。 「なら、いるんだよ。僕は稲妻しか見たことがないけど、でもこの山にはリュウジンサマがいる」  ――龍神様が、いる。 「君が『いる』と言うのなら、僕はそれを信じるよ」  蛇が笑う。口を開けて、目を細めて、首を傾げて、平太の顔色を窺うようにしながら舌を揺るがせる。  平太はその場で立ち尽くしていた。そうして蛇を眺めて、見つめて、それから小さく一つ頷いて、全身から力が抜けたように地面にそっと座り込んだ。  そうして初めて、蛇と視線の高さを同じにした。  蛇は地面に座り込んだ平太と同じくらいの背だった。そして、平太が見つめる先で蛇の目はだんだんと薄くなり薄黄色に近付く。鈍い土色だった目玉は黄色になり、金色になり、昼間の太陽に照る水面のようにきらきらと輝いていく。――その変化をまじまじと見、蛇の透けた目玉に空の明るさが映り込んでいるのだとしばらくして気が付いた。ぐるりと首を回せば、そこには雲間の中に蛇の目と同じ薄黄色が差していた。  空が白けてきたのだ。 「朝だねえ」  薄明かりの中、朝焼けを呆然と見上げた平太へ蛇は言う。 「そろそろ帰らないといけないんじゃない?」 「……うん。お父とお母が起きちゃう」  本当は帰るつもりなんてなかった。けれど、蛇の言葉に平太は頷いていた。  帰る。帰らないといけない。  お父とお母がいるから。  あの家は平太の故郷ではないけれど、平太が帰りたい場所だから。 「じゃあもうお帰りよ。リュウジンサマは僕が探しておくからさ」 「探してくれるの」 「だって気になるもの。僕もリュウジンサマに会ってみたい」 「ありがとう。……あのさ」  平太は蛇へそれを言いかけた。けれどそれを訊ねる前に、とあることに気が付いた。 「……名前は?」 「名前? 何の?」 「お前の名前。蛇って呼ぶのも何だか……」 「ないよ。必要ないもの。名前を呼ぶ習慣があるのは人間だけだよ」 「ないの? じゃあ……何て呼べば良い?」 「君が僕のことを僕だと指し示せるのなら何でも良いんじゃない? 僕が僕を呼ぶことはないし、僕を人間の言葉で呼ぶのは君だけなんだもの」 「はあ……」  どうやら何と呼んでも良いらしかった。この蛇はたまに言い回しが難しい。村の老人と話している気分だ。  なら、と平太は蛇の両目を覗き込んだ。  薄らと透き通る金の目を、今の空と同じ色の目を、少しばかり眩しさを感じるその眼差しを、見つめた。 「しののめ」 「シノノメ?」 「朝焼けのことを都ではそう言うんだって知り合いから聞いた。篠竹で作った網目の隙間からの光のような……って言われてもおいらにはちょっとよくわからなかったけど、とにかくすっごく少しだけの、ちょっとだけ眩しい朝の光。それを上品な人はしののめって言うんだって。都に勉強しに行ってる金持ちの息子なんだけど、偉そうに勉強の内容を自慢してくるから逆に勉強になってるんだ」 「あははっ、何それ、良い人だねえ」 「うん、良い奴だよ」 「それで、僕はシノノメ?」 「うん」 「ふふっ、既にある他のものの名前が僕の名前にもなるだなんて変な感じ。その辺りは人間にしかわからない感覚だね」 「それでさ、しののめ」  平太はそっと呟いた。 「また、ここに来て良い?」  本当は難しいことだ。また、夜の山を登らなくてはいけない。家を抜け出さなければいけないし、もしかしたら今度こそ熊に襲われるかもしれない。何より両親が平太の外出を知って外に出ないようにしてくるかもしれない。  それでも。  また、しののめと話がしたい。 「良いよ」  しののめは口をかぱりと開けて細い舌を泳がせた。 「じゃあさ、今度はお月見しようよ。お月見、言葉は知ってるけどしたことがないの。お団子を食べるんでしょう? 食べてみたいなあ」 「お月見は月を見るんだよ。団子を食べるんじゃなくて」 「月を見るだけ?」 「うん」 「それだけ?」 「うん。まあ、団子も食べるけど」 「食べるんじゃん。ねえ、僕もお団子食べたい!」 「わかったよ、今度持ってこれたら持ってくるから」 「わぁい!」  しののめがくるくるとその場で回る。腹を引きずり、頭を上下に振って、踊るようにその場を這い回る。その様子が上機嫌な子供みたいで、平太は声を上げて笑った。  平太が誰かの前で笑い声を立てたのはこれが初めてだった。 ***  山を降りた平太は起きたばかりの両親にかなり怒られた。「早く目が覚めたから散歩をしていた」と言うことで説教の時間は短くなったけれど、同時に両親の涙も見ることになった。二人にとって自分は本当に我が子なのだ――それが嬉しいような、自分に相応しくないような、嫌ではない不思議な心地だった。 「平太、何か良いことがあったのか?」  説教を終えた父が、正座続きで足を痺れさせた平太へ笑いながら訊ねてきた。 「儂らは真剣に怒っているのに、ずっと目を輝かせおって」 「そう?」  歯を食いしばりごろごろと床を転がった末どうにか足の痛みを退けた平太は、一息ついてから目を逸らしつつ鼻先を指で擦った。 「神様に会ったんだ」 「神様?」 「おいらにとっての神様だ。龍神様より小さくて幼くて、全然吠えない神様」 「この山には龍神様しかいないぞ」 「おいらにはいたんだ」  あの細い胴を、よく動く頭を、かぱりと開く口を、朝日に白んだ透き通った黄色い目を、思い出す。あの夜、闇の中でろくに物も見えていなかったのにあの姿だけはしっかりと見ることができていた。それに今気が付いた。  きっとあの時、しののめに声をかけられていなくても、おいらはしののめを見つけていた。  ――神様っていうのは『いる』と思えば居るものなんだよ。 「あいつはおいらの朝焼けの神様なんだ」  くるくると嬉しそうに回っていたしののめを思い出し、平太はそっと笑う。父は少し驚いた後、目元を緩ませて母と顔を見合わせ、「そうか」と微笑んだ。
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