しののめを見ゆ

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 その山のふもとに住む村人は皆、口を揃えて言うのだった。 「あの山には入ってはいけない。人嫌いな龍神様がいて、自分の縄張りに立ち入った人間をことごとく食べてしまうのだから」  龍神様、と呼ぶけれど、誰一人その姿を目にしたことはない。龍神様、と呼ぶけれど、誰一人それを神様として丁重にもてなしたことはない。ただひたすらに、時折山の上から聞こえてくる咆哮に身を縮めては家の中に籠り、山の方角へと頭を下げて「龍神様、怒りをお納めください」と祈るのだ。  平太にはそれが奇妙な様子に思えてならなかった。轟々と鳴り響く咆哮を聞きながら家族と共に頭を下げつつ、龍神様というものへ疑問を抱いてきた。龍神様はなぜ人が嫌いなのだろうか、なぜ雲が空を覆う暗い日にばかり大声で吠えるのだろうか、そもそも龍神様は本当に存在するのだろうか。  けれどそれを誰かに訊ねることはなかった。  龍神様はきっと、いる。いてくれなければ困る。平太にとって龍神様という存在は重要なのだから。 「平太はね、龍神様がくださった子なのよ」  寝付きの悪い夜や風邪を引いた昼、平太へ布団をかけてくれながら母は言うのだ。 「龍神様がお声を上げていた時、薪を割っていたお(とう)がお前の泣き声に気付いたんだ。龍神様のお声の中から聞こえてくる、小さな泣き声を」  山に少し入ったところで、赤ん坊の平太は泣いていたのだという。 「お父はお前を龍神様の物なんじゃないかって迷ったけれど、次第に雨も降り出してね、龍神様に殺される覚悟でお前を家に連れ帰ってきたのさ」 「お父は死んでないよ」 「ああ、死ななかった。龍神様が許してくださった。それとも、龍神様はお前を私達にくださったのかもしれない。私達には子供がいなかったから」 「おいらはお(かあ)とお父の子供じゃないの」 「お前は龍神様の子だ。けど、私達の子でもある。大切な、大切な、我が子だよ」  母は昔を思い返すように、目の前の平太を慈しむように、平太を布団の上からぽんぽんとあやしながら言うのだった。  要は捨て子というものらしい。平太は、父と母の子でありながらも父と母の子ではない。それを誰かに笑われることもなかったし、父と母は誰よりも平太を大切にしてくれたから悲観することもなかったけれど、平太は十二になった今でもそのことを忘れられないでいる。  平太はよく山を見上げる。畑に鍬を入れている時も、飯を食っている時も、寝る前も、何かと山を見上げる。家よりも遠くにあるなだらかな山の形が平太をいつも落ち着かせた。父と母のそばにいるよりも強い安心感が山にはあった。けれど同時に不安にも駆られた。  ――ここよりもあっちの方が、自分にとって良いんじゃないだろうか。  山に近付きたいと思った。龍神様に食われても良いと思ったし、むしろそれが本来の自分なのではないかとさえ思った。自分は元々龍神様に食われるべき子で、それをたまたま、お父が連れ帰ってしまったのではないか。龍神様は山の上からずっと平太のことを見つめているのではないか。平太が山に不用意に近付いてくるのを今か今かと待っていて、少しでも手が届くところに平太が来たのならぱっくりと食べてしまおうと狙っているのではないか。山を見上げるたび、平太は誰かと目が合っている気がしていた。それが気のせいではないことは平太が一番よくわかっていた。  龍神様は、存在する。  あの視線が平太を平太だと教えてくれている。  山へ行こう、と決心したのは何ということのない昼間だ。雲が厚く空を覆っていた昼間、太陽が隠れ続けた昼間、けれど龍神様の唸り声もなく、雨が降る様子もない、鳥も虫も鳴かない静かな曇りの日。見上げた先で、あの山は漂う雲を背後に佇んでいる。遠目からでもわかる茂った山肌は晴れた日に見るよりもじっとりと暗くなっていた。  日陰しかない、夜の闇を山肌に貼り付けた暗い山。龍神様が住まう山。平太の行くべき場所。  行こう。あの山に行こう。  別に誰かに何かを言われたわけではない。決心に至るきっかけがあったわけでもない。小さな頃から積み上げてきた何かがあの山のように高く高くなり、そうしててっぺんが空に届いたのだ。今だ、と思ったのだ。  その日の夜、両親が寝静まった時、平太は家を抜け出した。本当は明るい時間帯が良かったけれど、両親の目の前で山へ入るなどできるわけもなかった。それだけではない、昼間の山は恐ろしかったのだ。形がはっきりと見える分、そこに龍神様がいる気がして、そちらへ足を踏み入れるのがどうしても怖かった。見上げるたびに親しみを感じていたとはいえ、平太はただの人間で、ただの子供だ。まだ鹿狩りもしたことのないみじめな子供だ。龍神様に食われるべきだと思っているのと実際に食われるのとではわけが違う。  ――あの山には入ってはいけない。人嫌いな龍神様がいて、自分の縄張りに立ち入った人間をことごとく食べてしまうのだから。  背筋が冷える。足がすくむ。大人に怒られるとは違う怖さに泣きそうになる。  それでも行きたいと思った。だから、夜にしたのだ。夜なら山が見えない。夜空と山が同じ色になる。まるで山がなくなったかのように見える。少しは「山へ入る」という罪悪感が和らぐ気がした。  夜の山を――あの山があるはずの黒い夜空を見上げて、そして平太は家を振り返った。 「……お父、お母」  さよなら。  毎日夕暮れに村の人と交わすその言葉を両親に言ったのはこれが初めてだ。そうしてようやく、この挨拶は両親に言う言葉ではないことに気付く。「おはよう」や「おやすみ」とは違う挨拶だということに気付く。  口に出した瞬間、家に帰りたくなった。父と母の布団の中に無理矢理潜り込んでしまいたくなった。けれどそんなことが捨て子である平太にできるわけもない。  ぐ、と全身に力を入れる。鍬を振り下ろす前のように、力を入れる。地面につま先が食い込むような気がするほどに、強く、強く。  そうしてそっと力を抜いて、平太は山を見上げた。  山はずんぐりと黒ずんでいた。 「……よし」  何も良くないまま、そう呟く。「よし」と言えば何かが良くなる気がした。  歩き出す。畑を通り過ぎて、さらに奥、地面が上へと斜めになり始める場所へと足を踏み入れる。  山へと、足を踏み入れる。
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