駆け抜けろッ! 青春の日差しッ!

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1. 岡崎 直人(おかざき なおと)は東京の下町に生まれた。 彼には兄弟がいない。 公務員の父と、専業主婦の母。その間に生まれた一人息子である。 二階建ての小さな一軒家。岡崎家は至って大人しい家庭である。直人自身も目立つ人柄ではない。しかしクラスの輪に溶け込める程度の最低限の社交性は持ち合わせている。でも決して出しゃばるわけでもない。つまりは目立ちたがり屋とは程遠い、平凡を好む質(たち)である。 父は物静かな性格で、趣味は専ら読書。冗談の一つも口にしないが、でも直人をこよなく可愛がってきた。休日になると幼い頃からよく外に連れ出された。近所の公園はもちろん、登山や釣り堀に連れられた。遊園地や水族館も行った。父と過ごした思い出は数えきれないほどある。父は確かに無口であるが、それでも、父の愛情を一身に受けながら直人は成長した。一方、母は穏やかな性格で、そつなく家事をこなす。少々、口うるさいところもあるが、しかしこれも母なりの考え方と解釈すれば特段、気になることはない。父と同様、母からも多くの愛情を受けて育ってきた。直人にはその自覚が十分にあった。  直人は地元の小中学校を卒業すると、県内最難関の公立高校に進学した。実家から自転車で三十分ほどの距離にある有名公立高校である。直人は人間関係よりも勉学の方が秀でた学生であった。 入学式には、両親揃って参観に訪れた。直人はそれに少々、抵抗を感じていた。実は中学校の卒業式にも両親は訪れたわけだが、その式に両親が揃って来校した家庭はごくわずかであった。直人にとって、その少数派に自分が属していることが気恥ずかしく、そして少々不快に感じていた。しかし、純真に愛情を注いでくれる両親に対して、直人はそれを咎(とが)めることは決してなかった。直人は両親の愛を強く拒絶するほど不誠実な青年ではない。  入学式は体育館で行われた。閉式すると生徒は教室に案内され、そこで担任によって決まり切った挨拶があった。挨拶はものの数分で終わり、その場で解散となった。担任は無愛想な男だった。下校のため校門を潜ると、そこには両親の姿があった。校門前で親が待機していたのは岡崎家のみであった。   「直人。そこで母さんと並んで写真、撮るぞ」 校門横に立てかけられてあった入学式の衝立を父が指差した。校門は下校をする新入生たちで行き交っていたが、直人はそれでも父の指示に素直に従った。しかし内心では公共の場で母と並んで撮影することに相当の羞恥心を抱いていた。しかし直人は極力、カメラに向かって微笑みかけた。 そもそも直人は両親に反抗しない。むしろ両親の愛情に感謝している。その感謝が根源にあるため、反発心がないのだ。それはひとえに直人の素直さにある。両親のお節介や、度を超えた愛情について、多少、煙たがることはあっても、決してそれに反発することはない。 父は首から下げていたカメラで入学祝いの撮影をした。それが終わると直人を呼び寄せ、この足で外食に向かうことを伝えた。つまり昼食である。  「今日はお前の門出だからな。何が食べたい?好きなところに連れていってやる」 父は満足げに頷(うなず)いた。 一方の直人は、下校する新入生たちで溢れるこの場所から一刻も早く離れたかった。だから、なんでもいい、と言って先を歩き始めた。しかし決して苛立っていたわけではない。むしろ理由はもっと単純である。両親と共にいることで、これ以上、目立ちたくなかったためである。直人はとにかく目立つことを嫌う。そういう性格なのだ。でも両親は直人のそれをある種の反抗と認識した。確かに反抗といえばその通りかもしれない。しかし、大にして子どもの反抗には親のデリカシーの無さが密接に関わっていることを忘れてはいけない。敏感な思春期を前に、鈍感な大人たちが不用意に関われば、当然、それに反発するのは必至。「親の心子知らず」という、ことわざがあるが、それの逆もまた然り。直人は自意識過剰な性格ではなかったが、でも、人並みの繊細さを健全に持ち合わせている。 校門前で母と並んで撮影していたとき、視界には複数の視線を痛いくらいに感じていた。直人はその視線を冷ややかなものとして認識していた。それが直人にとって、たまらなかった。そして、少なからず目立っていることもまた、たまらなかったのである。 最寄駅に向かう途中、直人の後ろを付いて歩く両親は昼食場所を協議していたらしい。改札口を抜けたとき、父が直人にその場所を提案した。  「今から銀座に行かないか。銀座に昔から有名な中華料理店があるんだ。お前、中華は久しぶりだろ?」 父は嬉しそうな顔を向け、直人の背中を一つ叩いた。取り立てて拒む理由もなかったから、その提案をありがたく受け入れた。  その日の夜。 翌日、学校に持参するものを準備をした。何度もいうように、決して目立ちたがり屋ではないが彼だが、それでも高校生活に対して、確実に期待感を持っていた。今まで通っていた中学校は、ほとんどの生徒が地元の人間のため、そのほとんどが小学校からの顔なじみであった。しかし、明日から通う高校は中学時代の同級生が数人しかいない。そのため今まで味わったことのない新生活に、大いに期待感を抱いていた。期待感の中には冒険心も混在していた。その冒険心は期待と同義語である。その夜は横になってからも多少、興奮気味だった。 入学式では自分でも不思議なくらいに緊張していたために、クラスの同級生の顔をじっくりと眺める余裕がなかった。確実に人見知りである。こうしてベットに横になっていても未だ残る、残像のような緊張感と、確かな期待感とが混ざり合って、その興奮のせいで、寝つきが悪かった。しかしそれもそれで、決して悪くはなかった。  翌朝は曇っていた。でも降雨はない。 自宅の駐車場の脇に置いてある自転車を取り出す。この自転車は合格発表翌日に父が買ってくれたものだ。父は「好きな自転車を選んでいいぞ」と言ったっきり、予算のことは一切、口にしなかった。直人は素直にそれに従い、自転車屋で結局三時間、悩みに悩んだ。それでも父は何も言わず、いつまでも付き合ってくれた。父のその寛大さに感謝した。 学校の駐輪場は体育館裏にあった。そこには数台の自転車がまばらに留められてあった。直人はこの日、明らかに登校時間が早かった。適当な場所に自転車を停め、少しの緊張を確かめながら、校舎の通路を歩く。でも、すれ違う人はいない。直人のクラスは三組。教室に入ると、もちろんそこにも誰もいなかった。壁にかかる時刻は七時をちょうど回ったところ。直人の席は教室の後ろから黒板に向かって見たときに、右から二番目の列の、前から三番目の席。この配置は確実に名前順である。着席するとカバンの中から真新しい教科書と、数冊の真っさらなノートを丁寧に取り出し、それを静かに机の中にしまい込んだ。  ーーーさて、ここから実に手持ち無沙汰ない 教室はおろか、廊下まで綺麗に静まり返っている。 新学期の、それも早朝から教室にいても特にすることなどないのに、早く家を出てきた自分に自己嫌悪する。自嘲(じちょう)しよかとも思った。しかし、笑った次の瞬間に、足音も立てない物静かな生徒がこの教室に入ってきたら、不気味がられると考え、即座にそれをやめておいた。  しかしながらやることがない。 天井を見上げる。 やることがない。 やることがないので、目を閉じてみた。 何も考えずに目を閉じることにしたのである。 まるで瞑想(めいそう)のようだと感じた。 でも、そんなことを考えているようでは、全然それになっていない、とも思う。 今度は宇宙を想像してみた。 それを思い浮かべるのが瞑想にはいい、と誰かに聞いた気がする。 いや、どこかの雑誌に書かれてあったものかもしれない。 とりあえず、しのごの考えずにただ黙って瞳の奥に宇宙を思い浮かべた。 そしてしばらく経ったところで直人は目を開けた。 時計の針は五分しか過ぎていなかった。 そこでいよいよ直人は自嘲した。 すると計ったかのように一人の生徒が教室に入ってきた。 背の低い女子である。 確実に目が合った。 直視されている。 きっと自分も彼女を直視している。 三つ編みのその女子は、直人を訝(いぶか)しげな目で見つめていた。 直人は猛烈な後悔と強烈な恥ずかしさに襲われた。 彼女は小さく目礼をした。 だから直人も慌ててそれに倣(なら)う。 直人はたまらなかった。 危惧していたことがまさに現実のものと化したのだ。 自嘲しなければよかった。笑わなければよかった。 しかし。 直人という人間はそういった些細な不運を引き寄せる体質なのだ。 直人らしさといえば、これが直人らしさである。 拒めば拒むほど、それは現実化する。それがくだらなければ、くだらないほどに、大抵それは巻き起こる。大層、皮肉な運命である。つまり直人は、ついていない。そういう体質なのだ。 直人はそれから俯(うつむ)いた。不覚にも笑ってしまったことに後悔した。 最悪な初対面である。 少なくともこの女子には最悪な印象から始まった。 彼女は教室の後方に着席した。でも彼女が実際にどこに着席しているのかは確かめなかった。確かめられるはずもなかった。恥ずかしさのあまり、後ろに振り返ることなどできるはずもなかった。しかし、それ以降は不幸中の幸いで、彼女が教室に入ってから立て続けに生徒が登校してきた。直人にとって、この気まず過ぎる二人だけの空間を切り抜けたのである。これはある意味、ついている。直人はそう思うことにした。 しかしよく考えた。 いや、どこもついていない。 直人は朝から忙しい人間である。 それから一時間が経った頃、教室はすっかり満席になっていた。 多少の話声は聞こえるものの、それでも比較的、教室内は静かであった。 誰もが一様に周りの様子を伺っていた。 少なからず現時点では、このクラスに人見知りとは程遠い、初対面から大声で話す遠慮のないガサツな人間はいないようだ。 そして、しばらくすると教室に担任が姿を見せた。おそらく三十代の男性教師である。彼は昨日、自身を杉本と名乗った上で、数学を担当していると言った。杉本は痩せ型で、メガネをかけている。そして明らかに愛想のない人間である。しかしそんな教師でも、担任が教室に姿をみせると生徒たちの緊張は確実に緩和された。手持ち無沙汰なこの状況を統率してくれる人間が現れたのだ。そういう意味では担任というのは偉大な存在だ。そう感じた。それと同時に、大なり小なり、誰もが人見知りの要素を持っているのだと納得した。   一時間目はオリエンテーションだ、と担任が言った。 ふてぶてしくそう言った。 まるでやる気がない様子でそう言ったのだ。 オリエンテーションと言っても結局はただ校内を回るだけらしい。 担任は適当に廊下に並べ、と言って教室から出ていった。  (適当て……) 生徒たちは、もそもそと立ち上がると、なぜか皆、一様に自分の近くにいる人間に対して照れた顔を向けていた。その様子に気がついた直人は、皆のそれに倣(なら)って一応、照れた笑みを浮かべておいた。すると、例の三つ編みの女子と目があった。彼女は自分と目が合うと、照れた表情から訝(いぶか)しげな表情に変わり、こちらに向かってスッと目を細めた。 とんだ芸者がこのクラスに混じっているな、と感じた。 それから三つ編みの女子は、そっぽを向くと、構わず教室から出ていった。  (えぇぇ……う、うっそーん) 廊下に出ると担任を先頭に、縦に二列に並んだ。 整列する直前に、隣の席の青年から話をかけられたのだ。  「ねね。なにチュウ?」 彼が聞いた。  「え?あ、緑山第二中学校だよ」  「緑山か〜!……いいね!」  (はて。何がいいのだろうか……)  「な、なに中なの?」 一応、聞く。  「ああ、俺は東大川中学校だよ!」  「東大川ってことは、ここからまぁまぁ近いね」  「そうだな!自転車で四十分ってところかな。バスも出ているんだけど、俺は自転車で通学することにしてるから!」  「そうなんだ。僕も自転車で通学するんだ」  「へぇ」 青年はそう言って前を向いた。  (……え、それだけ?……はい) 直人は肩透かしにあったような気になった。  担任によって学校案内されている時、直人と彼は終始、小声で他愛もない話をした。彼は長細い人間である。聞いたら身長は百八十と言ってた。一方、直人は百七十六。彼は小学校からサッカーをしていて、中学時代はキャプテンとして県大会に出場した経験があると言っていた。言われてみれば確かに運動神経が良さそうな成りをしている。  「名前は?」  「岡崎。……岡崎直人」  「直人か!」  「あ、うん。直人」  「そうか!」  「え?」  「あ、ごめん。俺、新井。新井勇気。よろしくな」  「あ、うん。よろしく。……勇気、でいい?」  「それ以外に何がある?」  「新井……」  「うーん。どっちがいい?直人は?」  (いや、どっちでも……)  「……勇気?」  「おお!!そっちの方が、俺もいい!!」  (じゃあ最初からそう言ってよ) 新井は好青年な人間であった。  二時間目からは平常授業になった。直人の右隣が新井の席である。二時間目の現代国語が終わると、新井から昼食の時は一緒に食べようとの誘いがあった。直人はそれを快く受け入れた。新井は気持ちのいいくらい、はっきりとした男だ。  「まっ!これからよろしくな!」 と、新井は笑顔を見せた。 四時間目は体育だった。隣のクラスの四組と合同授業である。体育の授業に関しては、男女が分かれることになる。この形式は中学の時と同じだった。 男子の体育教師は、浅黒い中年の松田という男であった。授業は体育館でバスケットボール。チームはクラスの名前順に五人編成。直人と新井は同じチームである。苗字が近いから当然だ。その他に、伊東、上田、加賀がそこに揃った。そして競技は早速、総当たり戦形式で行われることになった。Aチームの直人たち三組は、四組のAチームと最初に試合をすることになった。当然、第一試合。直人は少々、運動神経に覚えがあった。しかし、バスケットボールに関してはあまり自信がない。シュートに難がある。 体育教師の松田がバスケットコートの中央に立ち、彼を挟むように両チームの代表一人が、向かい合う。  「直人!お前がジャンプボールな!!」 試合前、開口一番で新井がそう言った。その一言にチーム全員が頷いた。直人は苦笑いで頷いた。新井の明るさには遠慮がない。 コートの中央に立った教師の松田は、バスケットボールを空中に垂直に上げる。と同時に試合開始の笛が鳴り響いた。 直人は垂直跳びをして、指先が頂点に達するその前に、全身をさらに大きく伸ばす。 ボールは直人の手に吸い付くように導かれると、そのまま味方の陣地に叩き落とした。 ジャンプボールは圧勝。 そして試合展開は一方的なものになった。 さずがに新井は抜群の運動神経だった。それに上田と加賀も目をみはる身のこなしであった。一方、直人はこのチームおいて、そこそこの運動神経であった。それに引き換え、伊東というモヤシは論外の運動音痴であった。 試合は五失点したものの、得点はその十倍で圧倒的な勝利を納めた。 試合が終わると新井が上田と加賀に笑顔でハイタッチをした。 二人は、顔を火照らせたまま、肩で息をして新井のそれに応じた。 新井は直人にも笑顔を向けると、そのまま伊東の背中も何度か叩いて、微笑みかけていた。 きっと新井はクラスのムードメーカーになるだろう、とこの時、感じた。 他のチームが試合をしている間、チームで体育館の隅に固まって談笑することになった。眼鏡をかけたモヤシは、その談笑に全く興味を示さない様子で、いま行われている試合を眺めていた。それ以外の四人は新井を中心に話が盛り上がった。上田は中学時代、野球部。加賀は陸上部と言った。上田のポジションはピッチャーでエース。加賀の種目は高跳び。加賀は、自身の成績について、一度も県大会に出場できなかった負け組選手だ、と言って笑った。陸上の世界では、県大会に出られないと負け組らしい。一方の上田は日に焼けがよく似合う坊主頭で、少年のような顔立ちをしている。加賀はすっらとした体型の一重まぶたで、鼻の高い男。それに加賀は新井よりも長身であった。上田も加賀も社交的な人間で、新井の明るさに対して、違和感なく接していた。  「ところで、下の名前はなんて言うの?」 新井が上田に聞いた。  「真也」  「へえ、真也ね。真也か……よし、わかった、覚えたわ!」  (え、何その宣言)  「加賀は?」 新井は続ける。  「龍士(りゅうと)」  「え?」  「あ。りゅうと!」  「ああ、りゅうと、ね」  「新井は?」 加賀が逆に質問をした。  「勇気!んで、こいつは直人!」  「ああ、直人は知ってる。さっきから、勇気、何度もその名前を呼んでいるから」 加賀はこちらを一瞥(いちべつ)すると新井に向かってそう言った。  「ちなみに、岡崎って言います」 加賀と上田に向かって言った。  「うん、知ってる」 上田は体操着の名札を指差して言った。  「あ……いま、気がついた」 体操着の左胸部分に苗字が刺繍(ししゅう)されていたことに、このとき初めて気がついた。だから赤面した。  昼休みになると新井は上田と加賀を呼び寄せた。新井は自身の机をこちらの机に向かい合わせると、そこに二人を集まって昼食を取ることにした。元野球部の上田は「悪いね」と言ってこちらの机に弁当を置いた。なかなかの律儀だと思った。加賀は新井の机に弁当を置いた。加賀も新井に目礼していた。やはりこの二人は社交的な人間である。直人はそう確信した。そして四人は早速、昼食にありつくところまできて、新井がおもむろに立ち上がり、教室の後方に目を向けた。   「おーい、三浦たちもこっちに来いよ〜!親睦を深めようではないかぁ〜!」 新井は声を張った。彼の声量に少々、驚いた。少なくとも自分は彼のように声を張ることは滅多にない。新井の呼びかけに一人の女子の声が背後から聞こえてきた。 まぁ、そんな予感がした。 新井が向ける視線の方へ、ゆっくり振り向いた。 なるほど、例の三つ編みの女である。 どうやら彼女は三浦というらしい。 芸者は直人に気がつくと、慌てて目礼をした。 今朝された時のように、不敵な笑みで返してやろうか、と内心で皮肉ったが、いやいや、目礼で返した。 新井の呼びかけに賛同した三浦はその他に西尾と竹内という女子も引き連れてきた。西尾は笑顔が唯一の取り柄と言っても過言ではない小太りで、一方、竹内は色白で控えめな印象。新井の計らいで、昼食の場を四人掛けの机から教壇のところに移すと、男子四人と女子三人の合計七人の集団がそこにできあがった。  新井と三浦は中学からの同級生らしい。中学時代は、毎年クラス替えが行われていたが、二人は偶然、三年間同じクラスであった、と三浦が笑いながら付け加えた。意外にも三浦は明るい人間だった。訝(いぶか)しげなあの目付きがまるで嘘のように、今は常に笑っている。すると上田が竹内に目を向けて、実は彼女とは小学校で同級生だったと告白した。しかし当時、まともに会話をしたことがなかったので、改めてこうして向かいうと正直どうしていいか分からないと言って、上田は恥ずかしそうに笑った。竹内もそれとほぼ同じ具合で照れたように笑った。  (お見合いみたいだね) そう思いながら二人を見た。決して他意はない。 昼食中は新井と三浦の会話を中心に、その会話の流れに沿う形で一同は談笑を楽しんだ。三浦たち女子は吹奏楽部に入部する意向を示していて、それで意気投合したのだと竹内が物腰柔らかく説明した。竹内は控えめな性格で、容姿のいい女子だった。きっと男子受けする女子だろうと感じた。一方、男子受けとは程遠い女子が小太りの西尾である。西尾は少なくとも愛嬌のある人柄であるが、いかんせん声が大きい。よく言えば元気すぎる。悪く言えば、遠慮がない。  「あんたたちは部活、どこにすんの!?」  (この子。いま、あんた、って言ったぞ……おい) 苦笑い。 しかし西尾は至って愛嬌がある。つまりそこに悪意がないことは十分に理解できた。   「俺は野球一筋だ!」 上田が腕を組んで、目をつぶりながら言った。芝居掛かったその頷(うなず)き様は一同の笑いを誘った。  「俺は、陸上部。中学でもそうだったから」 なるほど、加賀も陸上を続けるらしい。 直人は感心した。 加賀は、負け組のままでは終わらないのだ。  「で、あんたたち二人は?」 西尾は笑顔のまま新井とこちらを見た。それにしても西尾の笑顔はきっと誰からも好かれるだろう。憎めない愛嬌を西尾は確実に持っている。  「僕は帰宅部」  「あぁ、俺は考えちゅー」 新井は両手を後頭部に回して言った。  「ああ、そう。じゃあ決まったら教えてね!!」 西尾は新井に言った。 教えたところで何になるのだろうと思ったが、これも社交的な会話といえば、その通りだ。 それにしてもこの昼食はとても有意義な時間に感じられた。自分は積極的にコミュニケーションを図る性格ではない。それが初日に、ここまで人と交流ができるとは予想さにしていなかった。それもこれも全て新井のおかげである。彼がそのきっかけを作ってくれたのだ。彼が自分に声をかけ、そして、この昼食の場にも誘ってくれた。その日の放課後、新井にさりげなく礼を言った。すると新井は、馬鹿丁寧か、とそれを笑った。馬鹿なのか、丁寧なのか、よくわからない表現をするな、とは思ったけど、もちろん新井のそれを好意的に受け取った。 それから一ヶ月が過ぎた五月中旬。 この日は丸一日かけて全校生徒の体力測定が行われた。 体育館では握力や立ち幅跳びなどの測定が行われ、校庭では百メートル走やボールを使った遠投距離の測定が行われた。自分はこの日の測定で、立ち幅跳びを二メートル七十、百メートル走の十一秒九という記録に満足した。帰宅部ながらあっぱれな成績である。 放課後、帰宅のため廊下に出ると、隣のクラスの大村という男から短距離選手として勧誘を受けた。彼は加賀と同じ陸上部に入部している。  「ぬはははははっ!!お主、なかなか走るやつじゃないか。陸上の経験者かッ!?」  (え……なんなだこの子は)  「いや、そういうわけじゃないけど、走ることはわりと得意だから。……え、何?」  「何と聞かれたら、お主を勧誘しに来たのであるッ!!短距離選手として、いざ、うちに入らぬかッ!!?スパイクを履いていたわけでもないのに、十二秒を切る走りってのは、これまた、なかなか大してもんだ!ぬはははははは!!」  「その評価はとてもありがたいんだけど、陸上部に入部する気は無いんだ。あの……ごめん」   「ぬっ!?その才能をみすみす捨てることになっても、おい、お前!それでもいいのか!」  (今まではその才能を喜んで捨ててきたわけだが……。でもこれを言ったらきっと身も蓋もないだろうからな)  「あぁ。そ、そうだね……。う〜ん。みすみす捨てることにするよ。今日から……」  苦笑して答えた。 それでも大村はそれ以降も顔を真っ赤にして、勧誘のために熱弁を垂れた。彼の熱弁を聞きながら、本当に勧誘する気があるならもう少し理性的に語ったらどうなのかと感じた。しかし大村は次第に自分の力説に、いちいち納得をしながら、しまいには自分の語る言葉一つ一つに酔いしれるように語る始末であった。まったくもってこの世の中には平和な人間もいるものだ、と大村を眺めながら関心した。 そしてそれから一週間が経った。 ホームルーム時間に、来月開催される体育祭の各出場種目決めがクラス内で話合われた。最低でも一人一種目は出場しなくてはならないらしい。結局、直人は短距離走とリレーに出場することになった。これの種目は直人にとって、小学生から定番の出場種目である。 リレーは男女混合で行われる、体育祭の最終種目、いわゆる花形である。その理由に一番配点が高いのだ。競技によって配点が違うのは違和感があるが、どうでもいいことか。 リレーのメンバーは、自分、新井、上田、竹内、太田、三浦の六名に決まった。このメンバーは新井の一声によって招集されたもので、勝ちにこだわることよりも、単純に新井にとって仲のいい人間たちを集めた結果である。入学以来、昼食になると相変わらず教壇に集まって男女混合で談笑ている。ただ、初日と違うのはそこに太田という吹奏楽部の女子が加わったことくらいだ。太田は基本的に相槌(あいづち)を打つくらいで、自分から話題を提供することはない。でも場が盛り上がった時は皆と同じように笑うし、たまに気の利いた言葉も言う。だからきっと太田はこの昼食を楽しんでいるように思える。彼女は身長が百六十七センチと長身で、スラリとした体型である。新井いわく、陸上部の加賀と太田は交際に発展する目前にあるらしい。新井からその話を聞いた時、僕らも昼食の時に太田と立派に交際しているのでは?、と皮肉を込めて聞き返してやろうとしたが、新井から小突かれそうだったのでそれを言うのをやめておいた。 実はこのリレー選抜。本当は四組の生徒と混合でチーム構成される予定であったが、その四組にリレー出場したい人間がいなかったため、新井が一肌脱いで昼食メンバーを一箇所に集めたのである。というのも、この体育祭自体、三色に別れ、競われる。 どの学年も、ひと学年、六組まである。それをこの体育祭では二組一色にしている。つまり、ひと学年に三色チームが構成される。これが三学年集まると九チームになる。つまり、このリレーは九組で行われる。 新井は昼食メンバーを一旦、男女に分かれて、じゃんけんによって選出された。じゃんけんに負けたのが、陸上部の加賀と、小太りの騒がしい西尾であった。選出外になった西尾は、私が出場しなくなった時点で大敗は免れたね、と言って大笑いした。確かにその通りかもしれない、ときっと誰もが思っているだろう。 メンバーが決まると新井は一応、体力測定の時に計った百メートルのタイムを全員に聞いた。新井は丁寧にその情報を紙に書き記していた。 新井、十二秒二。上田、十二秒九。三浦、一六秒八。竹内、一五秒三。太田、一五秒〇。 これを聞いた時、三浦さえどうにかなれば上位も夢じゃないと感じた。それと同じことを新井は実際に口にした。その会話の最中に、ちなみに私は十八秒三と言って、なぜか西尾から背中を一回叩かれ、大きく笑われた。以前、熱弁を垂れて陸上部に勧誘してきた大村とかいう人と同じくらい平和だな、と西尾を見て感じた。いや、案外、大村と西尾は相性が合うのでは、と思い直すと、今度、大村に吹奏楽部にぜひ入部することを勧めてやろうと考えた。  その日の放課後、自転車で帰宅するため、体育館裏にある駐輪場に向かった。帰りのホームルームは終わると決まって一番に教室から出ていく。基本的に、立ち寄りをせずに直帰する。直人は誰よりも熱心な帰宅部である。駐輪場に着くとそこにはまだ誰もいなかった。自転車が所狭しと並べられている。自分の自転車を取り出すとサドルにまたがり、ゆっくりと発進した。  学校は都会の中心にあり、校門を出てすぐ右手にある小道を抜けると大通りに出る。この大通りを道なりに走って行くと、自分の住む住宅街に差し掛かる。この住宅街に入り、路地を何度か右左折して帰路につくわけだが、比較的、簡単な通学路だ。  自分は極めて安全運転。下り坂であっても決して必要以上の速度を出さない。むしろ、いつでもブレーキの効く速度で運転してる。小学校に上がるのと同時に自転車を運転するようになったわけだが、今の今までただの一度も乗車中に怪我をしたことがない。事故はおろか、転倒すらしたことがない。自分はそれほど慎重な人間だと自覚している。  校門を出てすぐ右手の小道を抜ける。出た先は大通り。ここの歩道はとても広い。しかし歩道の真ん中を走ることは決してしない。むしろなるべく車道に近い場所を選んで走行する。 天候は曇り。しかし今朝の天気予報で降雨の心配はないことを知っていた。車道には走行車両が多い。車道も歩道と同様、とても広く、片側三車線もある。 この日は少々、暑かった。 汗ばむ背中を気にしながら緩やかな上り坂を登っていると、視線の先に現れたのは、いかにもガラの悪い同年代の三人組であった。彼らはこちらに向かって歩いてくる。三人は一様に制服ではなく、私服である。それもとても派手な衣装。もしかしたら彼らは、周りから注目されることは、評価されることだと勘違いしているのかもしれない。もしもそんな幻想に浸っているのだとすれば、全くもって、めでたい人種だ。馬鹿にはきっと悩みはないだろう。目立ちたがり屋は、基本的に才能がないから、目立ちたいのだ。才能のある人間は、むしろ大人しい。大人しくしていても、嫌でも目立つ。それが本当の評価である。 一度、後方を確認した後、車道寄りとは反対側の歩道にゆっくりと移動した。すると三人組の輩はこちらの動きに合わせ、同一方向に移動をする。彼らは正面から迎え討つつもりである。内心で舌打ちをした。やがて、上り坂から平坦な道になった頃、ゆっくりと自転車を減速させた。輩が自分を取り捕まえる配置を組んで待ち構えていたからである。  「なあなあ、兄ちゃんさ、なに高?」  「うわ、やっべ、太一(たいち)、こいつ籠松(かごまつ)高校じゃん!」  「え?なんでそんなんお前、分かんの!?」  「いや、うちの姉貴の昔の彼氏が籠松高校だったやつで、よく学校帰りに家に遊びにきてたから、この制服に見覚えがあるんだよ!」  「へえー、じゃあオメーお勉強がよくできる子なんだなー、おい」 サドルに跨(またが)ったまま、ハンドルを握った状態で俯(うつ)き加減に耐えていた。だから彼らと一切、目を合わせていない。ただ三人に取り囲まれているだけである。それが今の状況だ。  「申し訳ないですが、急いでいるので道をあけてもらえませんでしょうか?」 目を合わせずに言った。恐怖心はなかった。それよりも、面倒なことに巻き込まれた自分の不運に嘆いていた。  「え、ここ通りたいの?……別にいいいよ。ただ、通行料として一万もらうわ」 死んでもそんな髪型にしたくない爆発頭の男が、真顔で言った。残り二人はその言葉に腹を抱えて笑った。一方、自分も彼らの笑いの浅はかさに内心で苦笑した。しかしながら、いつまでも苦笑していられない。 迷う。 今、彼らにお金を与えてしまうと、これが習慣になって、以降もこの道で待ち伏せをされる危惧がある。そうなれば、七面倒臭いことこの上ない。あるいは籠松高校の生徒と知られた以上、校門で待ち伏せを食らうかもしれない。その場合、自分以外の生徒にも被害が生じるだろう。其(その)の場凌(しの)ぎのように彼らに今お金を与えることは簡単である。しかし今後を考えれば、それが成果ではない。なるほど、そこそこ困った事態だ。きっと彼らは、こういった多角的な考え方など決してできない猿たちであろうと、内心で嘲笑った。 結論を出すために、時間を稼ぐことにした。そのため、あえて会話をする。この際、会話をするために要する脳と、考察をするために要する脳とでは、北極と南極ほどかけ離れた場所にある。それを同時進行に働かせる。  「僕は一万円も持っていません」 下を向いたまま言った。決して前を向くことはなかった。これには明確な理由がある。それは単純に、汚物のような顔をしたこの猿たちに目を合わせたくなかったからだ。  「えーー!!嘘っしょー!!じゃあ、いいわ!今あるだけちょうだーーい」 男の甘えた声ほど吐きげを催(もよお)すものはない。 自尊心の欠けらもない、ただのケダモノたちか、と思った。  「ここを通るのに通行料が掛かることを知らなかったので、今きた道を引き返して、別の道で急いで帰ることにします」 彼らをからかうつもりで、でも、外見では怯えた演技を装い、言った。 そう演じた方がおそらく臨場感があって、きっと時間が稼げると考えたためである。  「いや、いや!もう俺たちが君のことを押さえちゃったから、通行料をもらうまでは引き返すことができないんだよねー」 一人の男がさらに詰め寄ってきた。激しい蛍光色の衣装である。きっと彼の前世は、陽気な国の貧しいピエロであろうと推察して、また内心で笑った。  「そうですか……。それは困りました。実は僕の家は貧しくて、今月は二千円でなんとか昼食のやりくりをしないといけません……」 日本昔ばなしに出てくるような台詞をこの猿たちにしたら、案外、同情を買うかもしれないと楽観的な面持ちになって語ってみた。でも、  「そうか、お前の家、金のねえオンボロなのか……。そうか〜。じゃあ、とりあえずあるだけ俺たちに金をくれや」 ピエロが答えた。 駄目だったようである。 ガッカリした。 猿たちの低脳に合わせて、適当にあしらうような会話をしていたが、でもここでいよいよ結論が固まった。 まず逃げることは不可能である。それは確実である。だからそもそも、ここに立ち止まっているのだ。 であれば、できる限り、肉体的な抵抗をすることに決めた。 この場合、十中八九、怪我を負う危険性がある。 しかし、二度目の被害は免れると結論づけた。 つまり、この結論は今後の被害を免れることにある。 ここで戦えば、今後、彼らは襲ってくることはない。 動物というのは逃げるものを追う習性がある。その逆に、悠然と立ち向かってくるものに関しては、それ以上の深追いすることはない。この場で、できる限りの抵抗を披露した結果、多少の引っかき傷を負わされようが、しかし戦う姿勢を見せたことで、二度目の被害を回避できる。これが直人の下した結論である。 負けてもいいから戦うのだ。 戦う姿勢が、二度目の被害をなくす。 この結論に自信があった。  「兄ちゃんさぁ〜、もう黙って、金だけくれればそれでいいから」 ピエロが疲れたように言った。正直、ピエロのその言い草には全く腹など立てていないが、その顔を殴り飛ばすことで、本当に真っ赤な鼻にして、前世のお前と瓜(うり)二つにしてやろうと、冷静に思った。手を出せば確かに少々、面倒なことになるが、いやこの場合は仕方ない。人生に理不尽はつきものだ、と誰かが言っていたが、きっとこの程度のことではその限りではない。 直人は初めてまともに三人に顔を向けた。とんでもない髪型をしたやつには、眉毛がほどんどなかった。そしてこいつは縮毛のように細い目をしている。親戚以前に、親からも可愛がられてこなかったような貧相な顔をしている。その縮毛目の横にいたのが、先ほど「太一」とか呼ばれていた男である。彼の姉貴の昔の彼氏が、母校出身らしい。死ぬほどどうでもいい情報だ。太一は身長こそ低いものの、肩幅が広く、体格のいいやつだった。きっとこいつにはどうやっても勝てないだろうと感じた。そして、残りは一人。ピエロは本当にピエロのような顔をしていた。あとは真っ赤な鼻にするだけだ、と思った。ピエロは自分よりも背が高く、そして線の細いモヤシであった。ピエロと縮毛だけならなんとかなりそうだったと内心でガッカリした。それが表情に出たのかもしれない。  「てめー、その目はなんだよ」 と、ピエロ。 自転車からゆっくりと降りた。 そして、自転車の後ろに立つと、スタンドを立てようとした。 心は既に一つに固まっている。  直人は今までいじめられたことがなかった。いじめられないように、ある程度、協調性を持って行動していたのだ。同時に、変に注目されないように、周りの様子を適当に伺いながら、学生生活を送っていた。直人はいたって平凡な生徒である。決して目立ちたがり屋なわけではない。目立つとすれば、例の徒競走くらいで、その程度ではいじめの対象にならないことを幼い頃から知っていた。自分は平凡であるが、その印象は意図して作り上げたものである。もちろん、その全てが偽造なわけでもない。そもそも自分は平凡がよく似合う人間である。ほとんどそれが素顔だ。しかし、ある程度周りに合わせ、適当に周囲の様子を伺うことで、平凡の地位をさらに確立させていったことに変わりはない。自分にとって、当たり障りのない立場ほど魅力的な地位はない。目立たないことこそ自分だと感じている。つまり自分の身が安全に守られるように立ち振舞ってきた。それが校内において、地味でいることであった。 しかし今は違う。 この場は戦うことが、最善であると判断した。 背負っていたカバンを地面に置いた。 ピエロその様子に目を見張った。   (こいつ一人なら、どうしたって勝てる) そう確信した。 そしてゆっくりと自転車から降りて、スタンドを立てる。 猿たちは黙ってそれを見ていた。 しかし確実にこの場には緊張感が漂っている。 ピエロの正面にたった。 やはり線の細いモヤシである。 爆発頭と、このピエロになら確実に勝てる。 厄介なのは太一とかいう、このガタイのいい男だけだ。 三人がかりでこられるとさらに状況は悪くなく。 でももう引けない。 そう、 心はもう一つに固まっているのだ。  「あんたたち!一体なんなのよっ!」 女性の声がした。 背後からである。 三匹の猿と一人の人間が、振り返った。 そこには自転車にまたがった一人の女子高校生が三匹たちを睨んでいた。 自分の真後ろである。 彼女は自転車から降りると、猿たちに近づいてきた。 猿たちは一様にたじろいでいる。  「何してんのって、聞いてんのよ!」 彼女は自分の前に立つとピエロの肩を一つ小突いた。 猿たちは確実に驚いた様子で開いた口が塞がらない。 いや、それは自分も同様である。 彼女は太一とかいう男を見下ろしてさらに声を張った。  「さっさと立ち去りなさいよっ!アンタたちっ!」 彼女は大きく怒鳴った。 とにかく迫力のある声だった。 三匹は何やら小言を口にしてたが、彼女がもう一つ声を張り上げると、短すぎる尻尾を巻いてこの場から立ち去って行った。 それから彼女は両手を腰に当てながら遠ざかってゆく猿たちを見張るように眺めていた。 その間、自分としてはただただ黙っているだけであった。 彼女は長身であった。おそらく百七十センチは悠(ゆう)にある。 スラリとした体型は、まさにモデルのよう。  「……あの、ありがとうございました」 猿たちの姿が見えなくなった頃、彼女の背中に向かって言った。 振り返った彼女は笑顔であった。  「ん?あ!いいの、いいの!それより盗られたものとかなかった?」 彼女は気さくにそう切り出した。驚いたことに母校の制服を着ていた。つまり彼女も籠松高校の生徒であった。いや、ここから一番近郊の高校なのだから、確率的にはそのほうが高いか。  「あ、はい。だい、じょうぶ、です。はい」 明らかにうろたえていていた。何より彼女には見覚えがあったからである。いや、見覚えどころか、はっきりと彼女のことを認識している。名前は宮崎みさき。同学年で、間違いなく学年で一番、男子受けのいい女子生徒である。彼女のクラスは確か、五組であったはずだ。  「……あなた、三組の岡崎くんでしょ?」  「は?」  「岡崎直人くんでしょ?」 固まった。こんな地味な人間が、まさか彼女ほどの高嶺の花から認知されているとは思いもしなかったからだ。  「え、あ、うん。……えーっと、あの、どこかで話たことありましたか」  「ううん。いま初めて話た!でも前から話てみたいと思っていたの!」  「は?え?……はぁあああ!?」 彼女のその言葉に驚きを隠せなかった。  「あなた、入学式の時に校門のところでお母様とご一緒に写真を撮られていたでしょ?」  「え、あ。はぁ」 一応、頷いてみせる。  「私ね、その光景を見て、あぁ、この人は親御さんのことをとても大切にしている方なんだなー、って勝手に関心しちゃったの」 彼女は小さく舌を出してハニカんだ。  「え、ええ。それは。……それは」 未だ状況が飲み込めないから、ただ頷くだけである。  「私、五組の宮崎です。宮崎みさき、よろしくね!」  「え、あ、はぁ。……よろしくです、はい」 何がどうなって、こんな状況にいるのか全く把握できなかった。そういえばあの時、半ば強制的に父親から校門で撮影させられたことを思い出した。 目の前にいる彼女は、艶(つや)のある真っ直ぐな黒髪を胸のあたりまで伸ばしている。一瞬、冷めたように見える目つきの瞳は奥二重で、綺麗な形をした高い鼻。小顔であるが、肩幅は広くない。故にそのバランスに違和感はない。すらりと伸びた佇まいは、きっと躾(しつけ)のいい家庭で育った証。彼女は確実に佳人(かじん)であった。  「ねね、岡崎くん、今日お暇?」 こちらの顔を覗き込むように彼女が言った。赤面していることをはっきりと自覚しつつ、小さく頷いた。
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