新たな名前

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新たな名前

 警察から帰るタクシーの中で、香はユウキにこう話を切り出した。 「そういえば、紹介がまだだったわね」 そう言って、ユウキの方へ顔を向けて、 「佐々木香です」 「話せなくても、頭の中で香さんって呼んでね」 と、笑顔で伝えると、香の顔をずっと変わらない無表情で見ながら、ユウキは頷いた。  そして、香は、 「そうだ!これから3年間、あなたを守るために名前を変えるんだけど…」 と、言葉にして、香は、少し悩みながら、 「ん〜、何がいいかな…。」 と、周りの建物をキョロキョロ見た。  見渡すと陽の光に照らされたビルが見えた。 「ヒカルなんてどう?」 と、窓に指で『光』と書き、 「これで、ヒカル。 佐々木光」 と言って、ユウキの顔を見た。  窓に書いた跡だけ薄っすら残る『光』の文字を見つめながら、ユウキは2回頷いた。  ユウキが頷くのを見て、 「良し! 決まり!」 「光、これからよろしくね」 と言って、香は、ユウキ…ではなく、光の手を握りしめた。  光は握られた手をじっと見つめていた。  ここまで何も考えず言われるまま来ていた。  罵声と虐待の毎日の中、光は『無』でいることが唯一助かる道だと思っていた。 『無』でいる事こそが、光の当たり前だった。  でも、香にお店で抱きしめられたとき…  そして今握られた手… 『無』から光の心が変わり始めていた。  もう、時刻は日曜日のお昼。  アパートの玄関前に着いた二人。 「あ! 一番大事な事言うの忘れてたわ!」 と、香は呟いた。  そして、光の方に顔を向け、 「家の中に、騒がしくて怪獣みたいな葵って名前のあなたと同じ高校1年生の娘がいるんだけど、あなたに危害は加えないから、大丈夫だからね」 と、微笑みながら優しく伝えた。  それに頷いた光を見て、香は玄関のドアを開けた。
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