俺の幼馴染に、なにやら猫の尻尾が生えているらしいのですが。

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 ――おはようございます。松山伊織(まつやま いおり)サマ。  本日は2255年7月6日、天気は、晴れのち曇り。  気温は23度、湿度は42%です。  降水確率···46%···にわか雨に、ご注意ください。  念の為に、折り畳み傘のご準備を致しますか? ――  右耳のピアスに埋め込んだAI-アドニス-から聞こえる、機械とは思えない程、流暢(りゅうちょう)なアナウンスに、俺は目をこすりながら答えた。 「要らない···セット・ワン」  俺の指示を受けたアドニスから、青い光が零れ始め、俺と寝室全体を包む。緑のカーテンが気に入っている、爽やかな寝室の景色は、瞬く間に、洋風なリビングへとモードチェンジした。  それと共に長年、部屋着に愛用している、灰色の安物トレーナーが、俺が通っている第一明鏡(めいきょう)高校の制服へと、切り替わった。  茶色のブレザーは、しわひとつ無く、俺は左袖を撫で、手触りを確認する。  ――うん、大丈夫そうだ。今回も()()した。  食卓へ着くと、ご丁寧に朝食セットが出来上がっている。  今日のメニューは、旧式ベーグルとベーコンエッグ。  作り立てのそれらは、ほかほかと湯気を出し、ベーコンの焼ける香ばしい匂いが、俺の食欲を(そそ)る。  ここ2、3日は新式の食事ばかりだったから、嬉しいな。  ――あの四角いキューブよりは、100年前の食事の方が食べている感覚がある気がする。  初めて旧式の料理を食べた時の事は、よく覚えている。  俺は母の手料理を、食べたことがない。  と言うよりも、母は幼い時に心臓病で亡くなり、正確には手料理どころか、顔すらも覚えていない。  ただ写真に残っている母は、笑顔が可愛い人綺麗な女性だった。  金髪碧眼(きんぱつへきがん)の容姿は、見事に俺に引き継がれている。  碧い瞳でさえ目立つのに、金髪だと更に悪目立ちするので、今は黒髪に染めている。  AI-アドニス-の容姿テクスチャで隠すより、直に染めた方が安心だったので、その方法で染め続けている。  ···髪の根本が金色になってきたし、また追加で染めないとな···。  親父は、と言うと俺が高校へ入学する前に、仕事の都合とやらで、突然パリへと海外赴任になった。  頑なに、仕事の詳細を明かさない親父にイラつき、当時は何度も喧嘩した。  最近は特に忙しいのか、連絡すら取れないが、あの親父の事だから、おそらく元気にしてるのだろう。  いつもは何だかんだと文句を言いつつも、晩飯は必ず、親父と一緒にとることが多かった。  親父がパリへと旅立った日、1人で食べる晩飯は、いうもより味気なく、と言うよりかは、食べていてつまらなかった。  誰かと食べる飯程、美味しいものは無いのかもしれない、と気付いたのは、その時だ。  そんな中、初めてまじまじと旧式のビーフシチューを見た。  何故だか、写真で見た母の顔が浮かび、まるで母が作ってくれたかのように感じ、泣きながらビーフシチューを頬張った。  あのビーフシチューの味が、未だに忘れられない。  そう言えば、新式のみを食べる人が最近増えたと、ニュースキャスターが言っていたな。  アドニスのメニューでは、日々の献立を細かく設定できる。  当然、旧式を毎日選び続ける事も出来るのだが、なんだか毎日食べるのは勿体なく感じ、今はランダムに設定している。  やはり、旧式を引き当てた日は、何となく気分が良い。  毎日の運勢占いとやらは、こんな感じだったのかもしれない···――と言っても、今ではもう、占い自体が廃れてしまい、占い師が居なくなった為に、滅多に見かけなくなったが···。  リビングのテレビ横にある時計に、ちらりと目を向けると、時刻は7:30を過ぎようとしている。  ···もうこんな時間か···朝は苦手だ。  もたもたしていると、すぐに時間が過ぎてしまう。  慌ててベーグルの一口目を、口いっぱいに頬張り、味わっている時だった。  軽快な着信音と共に、視界上に【-着信中- 初雪(はつゆき) みく】と表示された。  いつも通りの幼なじみからの着信に、応答した。 「――···むぐっ···みく。おはよ」 「···いおちゃん···っ うっ···く···」 「···え? みく、どうした?」 「······ぐす···っ」 「おまえ···もしかして、泣いてる···?」  明らかに、いつもの様子とは違う声色。  しおらしい幼なじみの様子に、戸惑いを隠せない。 「···が、···たの···」 「え? 何だ?  ···何て言った?」 「私の腰に、猫の尻尾が···っ! 生えた、の···」 「···はぁ?」  コイツ、何言ってんだ?  いや、俺が寝ぼけてるのかもしれない。 「なんだ? 寝不足か? 昨日寝れなかったのか? 人間に、尻尾なんて生えるわけ···」  刹那、みくの顔が視界上に浮き出る。  俺は思わず「うわっ」と、変な声を上げてしまった。 「みく、イメージモードを起動する時は、一言かけろって···なんども――?!」  寝起きなのだろうか、いつもは整えられた筈の彼女の栗色の髪には、くるりと寝癖がついている。  耳たぶまでリンゴのように真っ赤になった、みくの顔の後が映った直後。  映像画面が切り替わり、今度はみくの顔ではなく、腰元が映し出され、その次は彼女の背中が映った。体勢からして、どうやら彼女は、ベットにうつ伏せになっているようだ。  背中部分のパーカーがはだけ、もこもことした白のショートパンツの腰の辺りから、白と水色の縞々パンツが、ちらりと見えている。  だがそれ以上に、目を疑う物が、そこにはあった。  ――なんだ、これ···? 本当に、猫の尻尾なのか···?  みくの腰元からは、もふもふとした白い尻尾が生えおり、それはまるで、己の意思を持ったかのように、ゆらゆらと動いている。  俺の親友、宮下颯太(みやした そうた)から、颯太の飼い猫の写真を貰うのだが、何処と無くその猫の尻尾の形に、似ている気がする。 「! な、な···なんだそれ、なんで、そんなもんが?! ···つか、みく、お前···パンツ見えてるぞ···!」 「~~~っ!?」  彼女は、声に鳴らない悲鳴を上げ、慌てた様子で、ぷつりと映像が途切れると共に、視界上に【No image】と表示され、音声モードに切り替わったのだと分かった。  しばらくすると、視界上の文字表記は消え、先程まで見ていた、リビングの景色が戻ってくる。 「···いおちゃん···どうしよう···」  情けないようにも聞こえる、弱々しい声を出す幼なじみに、俺は頭を少し抱えた。 「みく、迎えに行くから、待っててくれ」 すっかり冷めてしまった、食べかけの朝食を残し、俺は急ぎ足で、自宅であるマンションを後にした。  * * *  5軒先の角地に建っている、みくの家に来た。  門扉を開け、玄関の扉へと辿られた、赤レンガの道を歩く。  ガーデニング好きの、みくのおばさんの趣味で飾られた、色鮮やかな庭を横目に、玄関の横に設置されたインターホンを押し、彼女の応答を待つ。  ――すぐ出ないということは、おばさん達は仕事行ったんだろうな。  ちらりと足元を見ると、幼稚園の時にみくと一緒に植えた、紫色のアサガオが目に入った。  朝からたっぷりと水分が与えられたのだろう、まだ花びらには、水やり後のしずくが残り、それ等は太陽の光を一身に浴び、キラキラと笑っている。  幼稚園時代の、おぼろげな記憶を、ぼんやりと思い浮かべている時、赤い屋根の一軒家――みくの家の2階部分から、バタバタと階段を駆け下りる音がする。  ガチャリと玄関扉が開くと、うるうると瞳を潤ませたみくが、顔を覗かせた。  まだ支度が整っていない、と言わんばかりに、制服ではなく、手触りのよさそうな、もこもことした白のパーカーを着ている。 「おっす···」 「うん···」  何となく、彼女と視線を合わせるのが気恥ずかしくて、つい目を逸らしてしまった。チラリと彼女を見ると、彼女も恥しそうに、ぎこちなく小さく手招きしている。  玄関の中に入り、見慣れた造りの廊下の先にある、階段を彼女の少し後ろから上がる。  彼女の腰周りからは、それらしき尻尾は見当たらない。  みくは、階段を上がりきった先の右角にある、彼女の自室の扉を開き、俺を再び招いた。  日当たりの良い、幼なじみの部屋は、昔の面影を残しつつも、前とは違った、ふわりと甘い彼女の匂いが、俺の鼻をくすぐる。  きれいに整理整頓され、女の子特有の可愛らしい小物に囲まれた部屋に入るのは、何故だか、より一層、恥ずかしく、一気に緊張感が増した。  部屋の中心にある、白い円形のラグの上に、なぜか正座で座る彼女。  ゴクリ、と唾を飲み込み、俺も意を決し、彼女の部屋へと、足を踏み入れる。 「···お、おじゃましまーす」 「ど、どうぞ〜」 緊張のあまり、敬語になってしまった俺に、同じくカチコチと音がなりそうな程、固まったみくの返事が返ってきた。 俺は彼女につられて、彼女の近くで、同じように正座で座った。 「これ···」  白いパーカーの中から覗かせる、ふわふわとした尻尾。 「まじか···これテクスチャとかじゃないんだよな···? ···触っていい?」 「···うん···」  恐る恐る尻尾に触れると、みくは「ひゃ···っ」と小さな悲鳴をあげ、身をたじろいだ。  白い尻尾は、見た目通り手触りが良く、俺の手から逃れようと、必死に動いている。 「すっげ! まじで尻尾だな!」 「~~っ!? そんな強く、握らないで···っ」 「ごめんごめん」  驚きのあまり、無意識に握っていた事に気づき、俺は手を放した。指の間からするりと、尻尾が逃げていく。 「あの···どこか体調悪かったりしないのか?  ···大丈夫かよ」 「それは、大丈夫···。不思議なくらい普通なの···。朝起きたら、腰の辺りがもふもふってして···鏡みたら、もう尻尾が···。とってもびっくりしたの···」 「···そりゃあ、びっくりするだろうな」  朝起きて、尻尾が生えていたら、俺だったら、もう一度寝るな。  そして、起きて夢じゃなかったと絶望するだろう。 「何か変な物でも食べた?」 「んーん。そんな変な物、食べた記憶ないよ···」 「うーん···」  暫く頭を抱え、どうしたものかと、うなっている俺の前で、彼女は白い尻尾を、己の右太ももに巻きつけ、ベットにあった手触りの良さそうなクッションを、抱えていた。  ベッドの枕元にある、テディベアの形をした置時計の時刻は、もう8時を回ろうとしている。 「···学校休むか?」 「やだ! 生徒会長になりたいもん。休みたくないよ···」 「そうか、確か、皆勤賞近い生徒が推薦されるんだっけ」 「うん。でも···どうしよう。今日プールあるのに···」 「あー···今日プール開きの日か···」  ぽりぽりと人差し指で、眉間をかきながら、女子の水着を連想した。  学校指定である、脇腹部分に白い縦ラインが入った、紺のスクール水着には、とても尻尾を隠せる隙間は無いだろう。  つい彼女の姿を、想像してしまう。  (つや)のある栗色の髪をした、ポニーテール姿の彼女が、髪をおろし、少し癖のある毛先は、スクール水着の胸元まで広がっている。そこに、白い猫耳と尻尾が生えているとなると···。  当然彼女が、恥ずかしそうにたじろいでいる姿は易々(やすやす)と思い浮かんだ。  我が幼なじみながら、全然アリだ。  ――いやむしろ、大アリだ。  まぁ、猫耳は完全に俺の脳内オプションだが。 「···いおちゃんのえっち」  俺の良からぬ妄想が、バレたのだろうか。  目前の彼女は、ぷくーっと頬を膨らませ、不機嫌そうにしている。 「···コホン···。()()()()()で隠す事は出来ないのか?」  わざとらしく咳払いをした俺だが、なにも、闇雲に提案したわけじゃない。  誰だったか···。開発者の名前はJなんとかバーターソン?  ···思い出せないが、ここ何十年かの、グランドクロス社のテクスチャ技術により、衣服だけでなく、室内や家具まで自由に、自分でデザインできるようになった。  俺の親父世代は、まだ衣服のテクスチャが浸透してないらしく、未だに昔の服を好む人が多いと聞く。  だが、俺たちの世代では、テクスチャが当たり前だ。  今では、制服までテクスチャを適応し、学校公認になっている。  可愛くない制服でさえ、自由にカスタムし、アレンジ出来るので、女子達が『可愛い制服が着れる!』と喜んでいた。  テクスチャの実装当初は、装置の不具合で、上手く反映されなかったり、酷い時は肌が透けたらしいが、今では安定し、不具合も起きない為、学校公認になったらしい。  ブランドやジャンル事に、振り分けられたテクスチャのデザインは、色形が数えきれない程ある。自分で好きなように組み合わせることが可能で、しかも直ぐその場で、適応される為、かなり便利だ。  もちろん、新規のテクスチャを購入するのには、多少お金はかかるけれど。  お洒落に疎い俺でも、カスタムしているくらいだ。  今後、皆が昔の服を外で着ることはないだろう――。  目前の彼女は、見ているこちらが不憫(ふびん)になるほど眉を下げ、しょんぼりとして、首を横に振った。 「テクスチャは、もう試した···。でも、どんなテクスチャでも···尻尾の根元までしか隠れないの···」 「まじか···。もふもふだからか?」 「! ひゃっ···急に触らないでっ」  白い尻尾が、またするりと俺の右手から離れ、バタンと地面に打ち付けると共に、彼女の顔から、湯気が出そうなほど真っ赤に染まっていく。  こんな彼女の顔を見るのは、久しぶりだ。  最後に見たのは、思い出せる範囲では、中学2年だろうか、今から3年前か···。  その年も、同じクラスだった俺達は、明らかに周りと比べ仲が良かった。  ···そりゃ。自分でも、仲が良いとは思っていたが···。  幼なじみだし、それくらいは普通だと思っていた。  今思えば、堂々としていたからか、周りから面と向かって、冷やかされることも無かった。  ――忘れもしない、中学2年のバレンタインの日までは。  みくは()()()()、毎年、手作りのチョコレートをくれていた。  今の時代、手作りなんてする必要はなくなり、ほとんどの人が、料理など作らなくなった中で、わざわざ「食材を取り寄せ、毎年張り切って作るのよ」と、みくのおばちゃんが、こっそり俺に教えてくれた。  俺はこれからも、彼女が作ってくれたチョコレートを受け取るのだと···。半ば、儀式のような()()が。  このままずっと続いていくと信じて、疑わなかった。  ――でも、違った。  ()()()以降、俺達はどことなくギクシャクしていたが、お互いに距離を置くわけでもなく、()()()すらも、自然と消えたかのように、気付けば、普通になった。  俺が知っている、みくの姿――恥ずかしがり屋で、泣き虫な甘えん坊だった、幼なじみは、徐々に、見慣れない、冷たく凛とした雰囲気を纏うようになり、まるで別人かのように、お淑やかで清楚な、気品ある生徒会長に憧れる女の子になっていった。  だから思わず、考えてしまう。  ――そんな風に恥ずかしがられると、昔に戻ったのではないか、と。 「みく。生徒会長に、なるんだろ?」  俺は立ち上がり、意気消沈した彼女へ、右手を差し出す。  彼女は、俺の手を取り、ふらりと立ち上がった。 「···うん···。なりたい」 「じゃあ、行くしかないだろ!」 「セット・ワン」と彼女が呟くと、彼女の右耳に着いていたアドニスが反応し、青い光が瞬く間に彼女を包み、第一明鏡高校の制服に切り替わった。  俺は視界上で、あるカスタマイズ品を選択し、彼女にその場でプレゼントを送信する。  我ながら、成績が良いとは言えない俺は、彼女が大切だと思っているであろう、生徒会の事などは全く分からない。  だが今まで頑張ってきたみくが、後悔する姿は見たくない。  例え、俺が贈ったプレゼントを、受け取ったと思われる目前の彼女が、涙目になり、今にも火山が噴火しそうなほど、ふるふると怒りに震えていたとしても。 「〜〜っ!! いおちゃん···最低っ!!」  * * *  先ほど、()()した幼なじみから、()()()()()()()()()――右頬のジンジンとした痛みが、随分と薄れてきた頃。  ようやく怒りが静まったらしい彼女を隣に連れ、俺たちは何とか予鈴がなる前に、教室に辿り着いた。  2-A組と書かれた教室の扉を開くと共に、クラスメイト達からの視線が、一斉に俺達へと集中した。  つい先程まで、教室の扉を抜け、廊下へと漏れ出る程に賑やかだった教室内が、俺達を見るなり一瞬で静まり返った。  ――分かってはいたが、見ず知らずの人に、後ろ指を刺されるより、はるかにクラスメイトから送られる、冷ややかな眼差しの方が、何万倍もキツい。  ひそひそと話をしている奴らを一睨みし、居心地の悪さを感じながらも、俺たちは堂々と席へ向かった。 「おっす」 「いおりん、なにそれ!」  俺の隣の席で突っ伏していた俺の友人、宮下颯太(みやした そうた)は、俺の頭上を見るなり、けたけたと笑っている。 「いおり〜ん···。そういう性癖ィ? あーナルホド、ハイハイ···」 「うっせ! これが最新のトレンドなんです~。ほら見ろ! こっちもあるんだぜ!」 「···これを制服でカスタムして登校しちゃうあたり、お前マジでイカついわ···よっ! 黒歴史決定! おめでと〜」  ひらひらと片手を振り、完全に茶化された。  ――アイツが笑うのも無理はない。  何せ俺の頭には、黒い猫耳がしっかりと生えている。  腰に生えた黒い尻尾は、ゆらゆらと揺れ動き、本物と遜色(そんしょく)ないほどリアルで、ぴくぴくとしている。 「みくち、ちーっす···ってあれ···君らお揃いな感じ? かーわいい~」 「颯太くん、おはよう。貴方の声を聞くだけで、酷い頭痛と、目眩と、吐き気がするわ···。もう一生、私に喋りかけないでもらえるかしら」 「ほわ〜。いつもながら、みくちゃんの塩対応、頂きましたわ! あざっす!」  俺の隣に居たみくは、へらへらと笑う颯太を見るなり、こめかみを抑えた。  そして大きく溜息をついた後、いつも通りゴミを見るような目つきで、颯太を見下ろし、足早に窓際の席へと移動していった。  彼女の後ろ姿には、ブレザーの隙間、俺と同じく腰の辺りから出ている白い尻尾が、バタバタと激しく揺れ動いている。  ···あれって本人の意思とか、何かしらの感情が出てたりするのか?  そんな呑気な事を考えつつ、俺も席へ座った。  ふと黄色い声が、みくの方向から聞こえる。 「――なに、何!? 伊織(いおり)くんとカップルコーデ!?」 「カップルではないのだけれど···いえ、お揃いという意味では、違わないわね···。ただ、これには複雑な訳があって···」  俺の席とは、反対側に位置する窓辺に居る彼女の様子を見る限り、今度は彼女の友人である涼村(すずむら)さんに、捕まったようだ。  涼村さんは、すっかり興奮した様子で、自分が教室の隅まではっきりと聞き取れる程、大声が出ていると気付いていないらしい。 「えぇー!? まさか、みく···伊織くんと···?」 「いえ、それは違うわ。花音(かのん)、少し声量抑えてもらえないかしら、私、頭が痛いの」 「あ、ごめん···」  余裕が無いのだろうか、友人へ向けて冷たく言い放った彼女へ向け、俺の後方から「うざ。頭が痛いのは、朝からそんなもん見せられてる、私らだっての」と罵倒する声が、はっきり聞こえた。  その声は、当の本人へも届いた様子で  彼女の肩はぴくり、と小さく震えた。  だが彼女は前を向き、決して俯く事はなく予鈴が鳴り終わってからも堂々としていた。  * * * 「はーい、皆おはよ〜ふわぁ···。出席とりまぁす」  気だるそうに教室の扉をあけ、入ってきた新任教師。  明らかな寝癖に、傷んだ金髪。なぜこの高校に異動できたかも謎な、とても高校教師とは思えない2年A組の担任教師。  今年に入ってから、第一明鏡高校に異動してきた佐倉咲也(さくらさくや)の瞳は、今にも寝落ちしそうな程とろんとしている。  明らかに寝不足な担任教師は、うつらうつらと船を漕ぎながら、出席を取っていく。 「田中ー」 「はーい」 「長瀬〜」 「はい」 「初雪···あれ?  ···おかしいな···」  とろんとした佐倉の瞳が、突如見開き、みくを凝視した後に、教卓に居たはずの佐倉が、即座に彼女の席にかけより、彼女の席に両手をつき、その場で声を荒らげた。 「俺の目の前に天使が居る!!」  酷く興奮した、異常なまでの担任教師の姿を前に  クラスメイト達がざわめき始める。 「みーくっ! 何それ!? かわいいじゃん!」 「···っ」  酷く不愉快なその光景に、俺はくらりと目眩がした。  彼女は少し眉をひそめ、一瞬酷く冷たい視線を佐倉先生へ向けたが、次の瞬間には笑顔になった。 「···佐倉先生? ()()()()()()()()()()()しまいますよ?」 「···あ、あはは。ただの冗談だよ、初雪さん」  興奮した様子の佐倉先生が、みくの言葉を聞くなり目を泳がせた後、すっかり覇気を失い、覚束無(おぼつかな)い足取りで教卓へ戻っていく。  そんな先生の姿は、ヒソヒソと交わされる噂話を盛り上げるスパイスにしかならず、出席確認が再開した事など関係なく、やがて噂話は教室内を包んだ。 「やっぱり、あの噂。本当なんだ」 「あの、佐倉が初雪さんをストーカーしてたってやつ?」 「え、なにそれ、気持ち悪」 「てかさぁ、平気な顔してぇ、普通に佐倉と会話してる初雪さんも、凄くなーい? あーしだったら絶対ムリ〜」 「それな〜! なんか、男に媚び売る感じの慣れてるんじゃないの?」 「あはは。そんな事言ったら、初雪さんが可哀想だよぉ〜」 「てかストーカーが本当なら、なんで佐倉、他校に飛ばされないの?」 「なんかぁ〜、初雪さんが警察届け出すの、やめたらしいよ〜」 「え、意味わかんないじゃん。2人が付き合ってたとか?」 「あの猫耳も、松山くんの趣味じゃなくて、佐倉の趣味だったりして! なんかめちゃ喜んでたしさぁ」 「うわ、キツいって」  後方で話している、ギャル4人組の会話は、最早内緒話とは程遠く、わざとらしく大声で話しているように感じたが、俺の感覚は間違って居ないはずだ。  今までだって、みくにヘイトが向くことは多々あった。  容姿端麗な上に、真面目で頭脳明晰な彼女へ向けた、一部の女子達の明らかな僻みは、少なからず昔からあった。  まるで獲物の弱点を見つけた、と言わんばかりな獣の様に、彼女達がみくのプライドを傷つけようとしている事は、明白だった。  湧き上がる、ふつふつとした怒りに任せ、彼女達へ向け、立ち上がろうとした矢先――颯太に強く左腕を捕まれ、強引に座らされた。 「···なんだよ···」 「やめとけ」 「···邪魔すんなよ」 「お前、少しは冷静になれ。ただの噂話だろ? それとも、みくちゃんから、()()()って直接話聞いたのか?」 「···聞いてねぇ」 「じゃあ尚更、今お前が出たらどうなるか、分かるだろ?」 「······。···颯太、サンキュ」  何時になく真剣な面持ちをした颯太に止められ、我に帰った。  颯太が止めてくれなかったら、今頃もっと、みくへ向けて、彼女達から不満の声が出ていたに違いない。  息が詰まる程苦しいが、今はひたすらに怒りを堪えるしかなかった――。  窓際に座る、彼女の小さな横顔は、後ろを振り向く事無く、 只々前を向いていた。  * * *  4人組の()()()は、出席確認が終わってからも続いた。  結局佐倉先生は注意する事、否。注意する素振りすらも、一度も見せず、そのまま朝礼が終わり、午前の授業が始まった。  みくの様子を心配したが、特に変わった様子はなく、10分休憩の合間に、みくに話を聞こうと何かと近づくも避けられ、気付けば昼休みになった。  今度こそは、逃げられないように。  チャイムが鳴ると同時に、彼女に近寄り教室から連れ出した。  みくを連れ出す時に、また随分と周りが騒がしかったが、気にならなかった。  彼女を連れ廊下を抜けた先に、旧校舎へと繋がる人通りの無い渡り廊下がある。  そこまでたどり着くと、今まで沈黙を保っていた彼女が、口を開いた。 「···いおちゃん、うで、痛い」 「あ、悪い」  無意識に、力が入りすぎたのだろう。  謝罪と共に、手を放す。  彼女は、右手首を撫でながら俯いていた。 「みく、佐倉と···」 「付き合うわけないじゃない。大体教師と生徒よ? ――あのバカ4人組の言うことなら、全部違うわ。ストーカーも、されてない···」  ふと右手首を丁寧に撫でていた彼女の手が、止まった。 「いえ、正確には···未遂で終わったの」 「未遂···? ストーカー未遂って事か? ···あの野郎···っ! みく!  なんでそんな大事なこと、俺に言って」 「言うわけないじゃない···っ!」  彼女からしからぬ予想外の大声が、俺の耳を貫く。  俺と彼女の距離が、少しでも縮まったと思ったのは一方的な俺の勘違い、否。勘違いと呼ぶ事すらおこがましい、欲望だったのかもしれない。 「···は、···そうか」  俯いたまま動かない彼女の元を離れ、俺は屋上へと向かった。  去り際に見た、彼女の白い尻尾はだらりと項垂れ  心做しか悲しそうに見えたが、それすら俺の心の中の願望なのだろう。  ――松山伊織が去った、旧校舎へと続く渡り廊下の真ん中には、白い猫の耳を持つ少女。 「···言える、わけ···ないじゃない···」  消え入りそうな声でぽつりと呟き、小さな肩を震わせると、彼女は人知れずひっそりと泣いた。  * * *  階段を一気に駆け上った後。  ()せ返るような暑さの、塔屋の扉の前で、俺は白いコンクリート素材の天井を見上げ、塔屋の扉を背に向ける。そのまま力が抜け、ずるずると地面に崩れた。  ――この扉が開かない事は、馬鹿な俺だって知っている。  だがここが一番、人が来る確率が少ない事も知っていた。  見上げていた天井の凹凸(おうとつ)ある模様が、(かす)んで(にじ)み、じわじわとぼやけ始める。  上を見上げれば、涙が落ちてこないと至極原始的な考えを抱きながら、必死に嗚咽(おえつ)を噛み殺した。  瞳からぼたぼたと、溢れた涙は、もはや止める手段が無く、流れ続けている。  ――なんで、気づかなかったんだ。  これまで毎日話して、沢山数え切れないほど、時間を共有して。  彼女の事を分かった気になって···アイツが一番頼ってるのは、俺なんだって···。  その心地よい独りよがりな優越感に浸っていた時期ですらあった。  ――否。その思いは、今もそうだ。俺は何をやっている?  あのクソ野郎とやってる事が何も違わないじゃないか。何やってんだ、俺は···。  何をしたら、あいつはまた頼ってくれる?  何をしたら、俺はみくを···。  太陽が一番高く昇り、容赦なくジリジリと塔屋を照り付ける日差しの中、昼休みの終わりを告げる予鈴が聞こえた。  5限目の授業は、確か体育か――。  ()()()()を作り出しておいて、今更みくを1人にしたくない。  俺はよろりと立ち上がり、プールがある体育館横へ向けて歩き出した。  * * * 「酷い顔ですよ? 松くん」  プカプカとプールに浮いている俺へ向け、頭上付近から声がしたが、太陽の光がプールの水へと反射し、顔がよく見えない。  俺の事を『松くん』と呼ぶのはクラスメイトの田村夕梨香(たむら ゆりか)しか居ない。  太陽が一瞬陰り、顔を隠した時、白い麦わら帽子を被った田村の顔がはっきりと俺の目に映った。  彼女は、三つ編みを揺らし、俺の顔を覗き込んだ。  普段のメガネをかけている時のように、くいっと持ち上げる仕草をした後、俺の頭の真横にしゃがんだ。 「それに。松くん、猫耳似合ってないです。世界の猫さん達、全員に謝ってください」 「うっせ。田村も、あの丸メガネ無いと違和感しかないな」 「メガネは私の本体じゃありませんので。松くんのそういう発言が、初雪さんに嫌われるのでは無いですか?」 「···今回は、まじで嫌われたかもしれないな」  ぼそっと呟いた俺の本音は、男子共の湧き上がった歓声で見事にかき消された。プールサイドを歩く山本と蒲田(かまた)の会話が聞こえる。 「俺、猫耳いけるわ」 「いやー、あのテクスチャの完成度はやべえよな。俺も彼女に着てもらおうかな」 「く〜! 彼女持ちはいいよなぁ。つかやっぱうちの学校のスク水エロいっしょ! スク水に猫耳と尻尾···! たまんねぇ〜っ!」  紛れもなく、みくの事を話している山本は見るからにデレデレしている。  自分の額に青筋が、浮き出ているのが分かる。  山本に向け、言い及ぼそうとした刹那。  ――柔らかくあたたかい感触が、俺の唇を通して伝わった。 「あ?」  パチリと、0距離で田村と目が合った。  白い麦わら帽子の彼女は、俺の惚けた顔を見るなり、満足気にくすり、と笑って、その場を後にした。  ――は? 今···俺、キス、されたのか?  あれは、何だったのか。田村、まさか俺の事を···?  キスと呼ぶには、あまりに短すぎる一瞬の出来事で、ただの事故だったのかもしれないし、いやでも唇···柔らかかったな···。  ――しっかりしろ、俺。ただのタチの悪い田村のイタズラに、惑わされている時間はない。  今はみくの事に集中するんだ。  俺は両手で、自分の頬に気合いを入れ、みくを探した。  女子から大ブーイングが沸き起こる声の渦中には  急遽、体育の教師が腹痛で監督できなくなったからと  サングラスを頭にかけた、傷んだ金髪の()()()()がいた。 「えぇー!? なんで佐倉が居んのー?」 「俺は先生なのでぇ、今日は俺がプールの監督しまぁす」 「やだー佐倉キモイから、たけもっちがいい〜」 「竹本先生は腹痛なのでぇ、今日は俺が全部見まぁ〜す」 「何その手の動き、まじでキモいって〜!」  意味深な動きをしながら、女子生徒と戯れるクソ担任の姿に、俺は勿論、他の男子生徒も一気に興醒めしたようだった。  プールサイドの端に居たみくを見つけた時、彼女は午前中とは違った絶望した表情で、カタカタと震えていた。  俺は気づいた時には、そのいけ好かない高校教師に殴りかかっていた。  * * * 「さてと、松山くん。落ち着きましたかな?」  校長室のローテーブルを挟んで、前に座っている校長先生は、たっぷりとたるんだ顎に生えた髭を、指で撫で俺の顔を凝視している。 「···はい」  佐倉の顔を殴り、馬乗りになった所辺りから、記憶が曖昧だ。  親父と喧嘩した時以上に、頭に血が上ったのは、初めてかもしれない。 「君が何をしたか、分かっていますかな?」 「···佐倉先生を、殴りました」 「そうですねぇ···。佐倉先生の怪我は幸い、致命傷には至らなかったものの、全治3ヶ月の怪我を負ったそうなので、暫くは学校に来ることは難しいでしょう」  俺がそれを聞いて、まず安心したのは、少なくとも3ヶ月は、みくが佐倉に怯えなくて済むであろうと言う、僅かな期待と安心だけだった。 「残念ながら、君を停学処分または最悪の場合、  ――退学にせざるを得ないかもしれません」 「···はぁ、そうですか」 「ですがもし、君が心を入れ替え、佐倉先生に謝罪しに行くと言うのであれば私も鬼ではありません。3日間の謹慎のみにしましょう」  退学という重い言葉よりも、あの佐倉に謝罪しなければならない事実に、酷く落胆した。  我を失いアイツを殴った俺は、もちろん一般的には悪でしかない。  だが、アイツに謝罪するくらいなら、大人しく退学になった方がマシだ。  俺は間違った事をしたと、全く思えなかった。  意を決して、佐倉へ謝罪する事を断ろうとした時、重厚感のある、校長室の木製の扉が勢い良く開いた。 「校長センセ〜、竹本先生が大事な話があるらしいっスよ〜」  そこには水着姿の颯太が、頭から血を流した大柄の竹本先生に肩を貸し、佇んでいた。  颯太が、竹本先生を校長室のソファに横たわらせると、校長先生は慌てて彼に駆け寄っていった。 「竹本先生!? どうしたのだね、その傷は···! 血がでているじゃあないか、は、早く救急車を···!」 「もう呼んだっス」 「そうか、ならば良いが···」  竹本先生は、途切れ途切れにゆっくりと口を開いた。 「···校、長···先生、やっぱり()()()···クロ、ですよ」 「!」 「だから···この子、たちは···」 「···本当なんだな···」  校長先生の問いかけに、こくりと、竹本先生は頷いた後そのまま意識を失った。  校外から、サイレンの音がけたたましく鳴り響き、救急車の到着を知らせている。  首尾よく駆け付けた救急隊員によって、手際よく運ばれていく竹本先生の姿を見届けた後、校長先生は深々と俺達に頭を下げた。 「君たち、今日はひとまず帰りなさい。また後日、ゆっくりと話そう。宮下くん···竹本先生の事、助けてくれて本当に、ありがとう」 「···ういっす」  俺たちは、校長先生の想定外の行動に、戸惑いながら校長室を後にした。  * * *  日が暮れはじめ、オレンジ色の夕日が差し込む放課後の校舎に向かう廊下を、俺と颯太はゆっくりと歩いた。  互いにテクスチャを起動し、普段の制服姿になる。  普段の制服、と言っても相変わらず猫セット付けている俺を、颯太は横目にチラリと見たが、深くは追求してこなかった。 「颯太···」 「あー?」 「助かった、ありがとな」 「別にぃ〜。なんかさァ、お前が佐倉をぶん殴った瞬間に、佐倉(あいつ)···()()()んだよな〜」 「···笑った?」  颯太の話曰く、颯太がプールサイドに出た時には既に、俺がブチ切れて殴りかかる直前だったらしく、大層驚いたらしい。そりゃ、そうだよな。  颯太の位置からは、佐倉の顔が良く見えたそうで、佐倉は背後から殴りかかっている俺の存在に気づいたかのように、わざと振り向き、まるで当たりに行ったように見えたそうだ。  そして俺に、()()()殴られた。  佐倉の体は、颯太が想定していた以上に吹き飛んだらしく、そのまま体勢を崩し転倒した。  転倒先のプールサイド際にあったコンクリートの飛び込み台で、ぶつけた左手首が、変な方向に折れ曲がった――。  いつもはオーバーリアクションな佐倉が不自然にも、全くもって痛がる素振りは見せず、救急車はおろか、他の先生達にも頼らず、その場に居た生徒に口止めしたそうだ。  ブチ切れている俺を止めるには、他の先生が必要だったらしく、結局誰かが先生を呼んだそうだが。  心配する生徒たちをよそに「折れたのは利き手じゃないから、大丈夫だよ」と他の先生が来る前に、佐倉はそそくさと自らの車に乗り込み、機嫌良く病院に向かったそうだ。  女子達から竹本先生の話を聞いた颯太は、嫌な予感がしたそうで、校舎中、竹本先生を必死に探し回り、やっと旧校舎の男子トイレで、竹本先生が頭から血を流して倒れているのを見つけた。  竹本先生は、佐倉から「男子生徒が旧校舎のトイレで煙草を吸っていた」と聞き、旧校舎の男子トイレに着くなり、何故か背後から佐倉の声がした後、何かで殴られたと言っていたらしい。  竹本先生は、自分の身よりも一刻も早く校長先生へ話がしたいと言うので、颯太は竹本先生に気付かれないよう、状況をアドニスで救急隊と共有し、そのまま校長室へと向かったそうだ。  颯太は言わなかったが、旧校舎から校長室まではかなり距離がある。  身長が180cm以上はある大柄の竹本先生を運ぶのに、かなり苦労しただろう。  颯太は、普段のチャラさからは考えられない程、いざと言う時は頼もしい男だ。  このへらへらとした親友に、俺は、何度助けられてきたか···。  俺は颯太の話を聞く中で、静かに颯太への感謝の気持ちを噛みしめていた。  全て話終わる頃には、俺たちは2-A組の教室前まで移動していた。  * * *  夕日が赤く差し込む教室に1人、猫耳見つけた少女の影が伸びている。彼女は、窓辺に佇んでいた。 「みく···」 「いお、ちゃん···っ、ごめん。ごめんなさい···」 「みくのせいじゃない。俺こそ、ごめんな」  俺の声を聞くなり、彼女は駆け寄り、隣にいる颯太の目も気にせず、俺にしがみついた。  彼女の小さな肩が震えるのと共に、彼女の尻尾もまっすぐと上に伸びている。 「ほわ〜。しっかし、よく出来た尻尾だな、これ。オレん家の猫そっくり···」  颯太が関心するように、彼女のよく出来すぎた、非現実的な白い尻尾に、興味本位で手を伸ばした瞬間だった。  俺が止める前に、触れてしまえたのだ。  テクスチャならば、掴めるはずの無い、尻尾を。  颯太が掴んだ、みくの尻尾は、颯太の手をすり抜ける事無く颯太の手中に収まっている。 「···あ、れ?」 「ひにぃっ! ···〜〜っ!!?」  変な声を出し、瞬く間に顔面を真っ赤に染め、颯太を睨む、みく。  一方、普段から猫を飼い、彼らに触りなれているであろう颯太にして見れば、触り慣れた感覚そのものだったのかもしれない。  へらへらと笑う颯太の額から、次第に大量の冷や汗が出ており、ついに颯太の顔面が蒼白になった。 「みくちゃん···。···これガチの奴じゃないよね?」  * * *  俺達は、一通りお互いの経緯を報告しあった。  佐倉の話はもちろん、俺の退学の話も解決していない。  俺達の話を聞くなり、彼女の表情が強張っていくのが分かった。  少しの間、静かになった教室内に、壁に掛けられた大きな丸い形をした、壁掛け時計の秩序正しい秒針を刻む音が響いた。  みくの斜め後ろに座っていた颯太が、いつも通り頬杖をついたかと思えば、彼女の尻尾で遊ぶように、ツンツンとつついた。 「へえ···しっかし、()()が突然生えてきた、ねえ」 「ちょっと、颯太くん···無暗に触らないでくれるかしら。酷くイラつくのだけれど」  暗かった彼女の表情が、少しだけ明るくなった。  それは怒りかもしれないが、今は、それでよかった。  俺は、幼なじみと親友のやり取りを見て、自然と笑みがこぼれていた。 「まあ、俺も未だに、触ってても信じられないしな」  颯太の横に座った俺も、叩きつけるように、バタバタと暴れまわる彼女の白い尻尾に、いたずらし、人差し指でつつく。 「偽物であってほしいけど、何かこんなに元気なら、本物なんだろうな」 「まあでも? いおちゃん的には良かったんじゃねぇー? 気になる幼なじみの気持ちとか、分かるかもよ〜?」 「お、俺は別に気になって···」  ――気になる幼なじみ、か。  確かに颯太には、色々と話してきたがまさか、みく本人が居る前で言うとは。  俺が言葉を言い淀んでいると、俺の顔を見るなり颯太は飽きた、とでも言うように立ち上がり、窓へ向け、両手を上げると、ぐぐぐと伸びをした。 「はあ···。だから颯太くんと話すのは嫌なのよ···。貴方はデリカシーってものが無さすぎる」  俺は何となく、彼女の顔を見るのが(はばか)られ、机の上の模様を眺めていた。  彼女がどんな表情をしていた分からないが、彼女の颯太へ向けた凛とした声はひどく冷たく感じた。  みくは机の横にかけていたスクールバックを持つと足早に教室を出て行った。  ぼんやりとしている俺の視界上に【受信-宮下颯太-】と表示された。 「なんだこれ···」 「親友からのプレゼント」  颯太はひらひらと片手を振ると、「じゃ、また明日な」と残し教室を後にした。  颯太から、送られてきたURLを開く。  視界上に映し出されたブログには【これを読んだらあなたも猫マスター!? -猫の気持ちと尻尾の動き4選! 愛猫の気持ち、教えます! -】と、なんとも怪しげな、謳い文句がつらつらと書かれている。  普段の俺とは縁遠い、見慣れないジャンルのコラムに、ためらいつつも、俺はすべてに目を通した。  * * *  みくへ向け、何度か着信を入れるも、応答がない。  仕方なく帰宅する頃には、辺りはすっかりと暗くなり、空には一番星が出ていた。  帰り道のいつもの道路には、ぽつりぽつりと街灯が灯っている。  夏にしては涼しい夜の気温が、無性に寂しく感じ、彼女に会いたくなる気持ちを高めた。  自宅マンションのエントランスから、中に入ろうとした時、みくから折り返しの着信が鳴った。 「もしもし···」 「いおちゃん、連絡遅くなって、ごめんね···」  物腰柔らかな口調は、学校の時の彼女とは違い優しい。  ()()()の彼女に近い雰囲気を纏い、一気に懐かしさに包まれる。 「いおちゃん?」 「···あ。おう。なぁ、みく···」 「んー?」 「今からちょっと会えないか?」 「···いいよ。どこで会うの?」 「迎えに行く」 「わかった。もう家にいるから、待ってる」  通話を終了した俺は、エントランスから道路へと踵を返し、みくの家へ向かった。  * * *  赤い屋根の一軒家、みくの家に着いた時、玄関が開く音と共に中から彼女が出てきて、ふいに目が合った。  家の中から籠れ出る照明の光が、彼女の姿を照らしている。  白いふわりとしたガーリーなトップスと、デニムのショートパンツ姿に、薄手のロングカーディガンを羽織っていた彼女からは猫耳のテクスチャが外され、すっかりと元に戻ったように見えた。  よく見ると、白い猫の尻尾はロングカーディガンに隠され、目立ちにくい。  ショートパンツから見える、いつもとは雰囲気が違う、きれいな足に、ドキリと心臓が鳴り俺は慌てて彼女から視線を別に移した。 「みく、少し三角公園に行こう」 「ん。わかった」  俺の左隣に並んで歩くみく。 「三角公園、2人で行くの懐かしいね」 「そうだな」  三角公園へは歩いて5分ほどで、今の俺達なら目と鼻の先だが、当時は公園へたどり着くまでも、大きな冒険だった。  ――可愛らしい猫の髪飾りで髪を2つ結びし、白いレースのワンピースを着た小さな女の子は、三角公園の看板前で膝を抱えひとりで泣いていた。 「どうしたの?」 「おにいちゃん、だあれ?」  しゃがんだまま、俺を見上げた女の子の右膝は、転んだのだろうか、擦り剝け、血が出ていた。 「ふ···びええぇえん···!」  俺が声をかけるなり、大声で泣き始め、俺は慌てて、先ほど駄菓子屋で買ったばかりの、水色の包み紙に包まれたサイダー味の飴玉を取り出し、女の子に差し出す。 「これ、シュワシュワしておいしいよ! 君にあげる!」 「ふぇ···? ···! ほんろだ···! しゅわしゅわ、すりゅ!」  先程まで泣いていた女の子が、あっという間に笑顔になった。 「オレは、まつやまいおり! 君のなまえは?」 「わたしは、はつゆき、みく···」 「みくか! よろしくな」 「うん! いおちゃん! よろしくねっ」  これが俺と、みくが初めて出会った日の事だ――  公園の白く光る照明が、ポップな塗装をされたブランコを照らす。  ブランコ横の木製のベンチに2人並んで座る。 「今日は色んな事があったな」 「そうだね、この尻尾、このままずっと無くならないのかな···」 「どうだろうな、明日には消えるといいな。まぁ安心しろ、消えないとしても、みくの尻尾が消えるまで俺も一緒に猫になるよ」 「···いおちゃん、ありがと···」  そっと左手の甲に温もりを感じると共に、みくの小さな右手のひらが俺の手を握っていた。 「なぁ、みく···」 「なぁに···?」 「何で()()()以降、あんな喋り方になったんだ?」 「···」  俺たちの中で、自然と――否。  話題にする事を深く避けてきた()()()()()()()()()()。  あの日以降、彼女は突如学校にいる時だけあの口調になる。冷たく凛とした口調に酷く驚いたが、今まで触れてこなかった。  俺の問いかけ以降彼女は、口を噤み俯いている。 「···いおちゃんには、関係ない」 「関係なく、ないだろ」 「···っ···! 関係ない!」  みくの言葉とは裏腹に、彼女の右手には、力が入る。  俺はその手を、優しく握り返した。 「俺が、みくと関わりたいんだ」 「···どうしてそんなにしつこく聞くの···? いつもは、こんな話しないのに···」 「好きだよ、みく」 「え···?」 「幼なじみとかじゃなくて、俺は、みくが好きなんだ」  俺の告白をきくなり、みくはぴくりと肩を震わせ、俺の瞳をまっすぐ見つめた。  彼女の大きな瞳は、潤み、震えている。 「···らい···! きらい···! いおちゃんなんて、嫌い···!」  ――嫌い、とみくが否定する度に、みくの顔に猫のヒゲが一本ずつ生えていく。  彼女の右目から、涙が一粒零れた時、彼女の頭には、テクスチャを外した筈の猫の耳がふわりと現れた。  妙にリアルで、テクスチャとは思えない猫耳(それ)に目を疑う。 「嫌いなの! ···いおちゃんを好きになる、自分が···!」  みくの右手の爪は、鋭く尖り俺の左手を押しやり、俺の左掌からたらりと血が垂れ、痛みで顔が歪む。  みくの顔に、猫のヒゲが生え揃い彼女の片方の瞳、黒目部分が猫のように鋭くなった時、俺は咄嗟に彼女を抱きしめていた。 「――ッ···! 俺は、みくが例え猫になっても、お婆ちゃんになっても···どんな姿になっても、好きだよ、――大好きだ!」 「···ほんと?」  ぽろぽろと、涙を流す彼女から、蛍の光のように淡くあたたかみのある光を纏っていく。 「私もいおちゃんのこと、だいすき···」  みくが打ち明けたあと、彼女を包む光が消え、猫耳も、ヒゲも、しっぽも徐々に透過され、薄れていく。 「みく、尻尾消えかかってる」 「え!?」    みくが気付く頃には、彼女に生えていた不思議な尻尾は、すっかり元に戻り、淡い光と共に消えていた。  * * *  ――おはようございます。松山伊織(まつやま いおり)サマ。  本日は2255年7月15日、天気は、快晴。気温は26度、湿度は40%です。降水確率···0%···。  熱中症にご注意下さい。水分をしっかり補給しましょう。  スポーツドリンクをご用意致しますか? ――  気温26度って···今日は昨日より、もっと暑くなりそうだな。 「いや、要らない」  いつも通り、寝室をリビングにモードチェンジし、食卓に着く。  本日の朝食は、旧式の和食セットか···。  大根と玉ねぎとワカメの味噌汁と、白ご飯。  おかずは、丁寧に巻かれた、焦げひとつ無い、綺麗な色をした卵焼きと、パリッと焼きあがった、ジューシーなウインナー。横には、新鮮なミニサラダがついている。  うん、今日も美味そうだ。 「いただきます」  手を合わせ、味噌汁の一口目を啜ろうとした時、インターホンが鳴った。アドニスを使い、応答すると視界上には、嬉しそうなみくの姿。 「いおちゃん、おはよう」 「ん、まだ朝食食べてないからとりあえず上がって」 「ご、ごめん! いおちゃんと一緒に登校するの嬉しくて···早かったかな···?」 「いや、みくは時間通りだけど、俺が寝坊した」 「えぇー?」 「も〜!」と不満げに唇を尖らせている彼女の姿に、猫の気配はない。  結局、俺は退学も、停学すらもならず、通常通りの登校が許可された。  一方佐倉は、竹本先生の一件で逮捕され、みくへのストーカー未遂も、処罰されるそうだ。  竹本先生は、頭に包帯を巻いたままだが、かなり回復し、先日、佐倉先生に代わって2-A組の担任になった。  俺の幼なじみ兼、俺の初めてのカノジョは、学校でも、彼女そのものになった。  もうあの冷たく、凛とした口調で、彼女は気持ちを誤魔化したりしない。  あの日の彼女に生えた、白猫の尻尾は、あの夜以降、現れる事は無かった。  あれが何だったか、何でみくに生えたか、なんて、俺には分からない。  ただ猫耳姿のみくが、世界一可愛いと思った、なんて。  ――···本人には、絶対に言わないけれど。  * * *  【これを読んだら、あなたも猫マスター!?⠀】  猫の気持ちと尻尾の動き4選! 〜愛猫の気持ち、教えます〜  ······  ·········  ···貴方を見て、尻尾を上に向け、真っ直ぐと立てる仕草は――。  ――···あなたのことを、好きな証拠です。
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