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「本当に可愛いよ、陸。また一人でおいで、この続きをしよう」
まるでその言葉は甘い呪縛。
一人で行けば、この先がある。
一人で行く心細さも最初の一度を迎えてしまえば大丈夫。
文也には何度も付き合ってもらうような形になっていた為、一人で行けるならばそれに越したことはない、とも。
誠司さんとの事を話したいと思ったけれど、考えてみたら付き合っている訳でもないのにこういう関係になったのは何となく言い辛くもある。
気持ちを打ち明けろと散々言われていただけに順番が違うとも文也ならなりそうだ。
仕事を終えると既に20時を回っていた。
昨日の今日で誠司さんに会いに行くのは何となく恥ずかしくもあって、子犬の様子を今日は色々聞いてやると意気込み、せりざわ動物病院に電話をしてみた。
でも呼び出し音が聞こえてくるばかりで電話は繋がらない。
仕方なく帰宅の準備をロッカールームで終え、最後の戸締りをして会社を出た。
クタクタな体で今から食事を作る気分にはどうしてもなれない、帰りにまた牛丼でも食べようかと思いふと足が止まる。
10メートルくらい先には背の高い男、髪を二つに結った小さな女の子と茶色の子犬も一緒にいる。僕が行こうとする牛丼屋とは反対方向へと歩いて行くようだ。
「せりざわ先生!」
分かった瞬間走っていた。
子犬はたった一日なのにとても元気そうで、先生の肩越しに僕を見て鼻をクンクンさせてキャンキャン鳴く。昨日の電話で少しくらい「もう大丈夫」とか言ってくれてもいいだろうに。
せりざわ先生は道路を横断した所で僕の声に振り向き、走る僕を見つけて冷めた顔で首を掻いてる。
そんなにめんどくさいのかよって思ったけれど、子犬の為だ気にしていられないっ。
運動不足が祟り肩で呼吸するのを見下ろして、端正な顔は冷めた目を細めた。
「こんばんは」
「……どうも」
挨拶もめんどくさいのかこの人は。
先生と手を繋いでいる女の子は僕に満面の笑みで見上げてる。
「こんばんばん!」
「こんばんは!」
女の子に向かってしゃがむと、この男とは似ても似つかない可愛い目をクリクリとさせてくれる。
茶色の子犬は僕の足に絡みついてきて、一人と一匹に自然と顔が綻んだ。
「何才なの?」
「マメトコォ!」
ほっぺが白くてふっくらマシュマロだ。
ふわふわな白い上着を着たマシュマロみたいな女の子は、僕に一生懸命小さな手を全部出して教えてくれる。
「なに?」
癒されている僕に無表情の男の冷めた声。
なに?しか話せないのか、この人は。
普通何才なのって聞いたら、親が2才とか3才とか教えてくれるようなもんなのに。それすらしないのか、この人は。
「子犬の様子を聞きたくて電話したんです」
「この通りだけど」
「歩いてるの見かけて嬉しくて声かけちゃいました」
「ふーん」
興味なさそうな表情を隠そうともしない。
それに比べて女の子はマシュマロほっぺをパンパンにしてニコニコしてくれる。
「お名前なんて言うの?」
「マメトコォー」
「マメトコ?」
「マメトコォー」
どうやらマメトコってのが彼女の流行りらしく、真剣なマシュマロがマメトコを繰り返してるみたいで笑ってしまった。
「あ、もしかしてハナちゃん?」
無愛想なこの男がそう呼んでいたのを思い出し、そう声をかければ大きな目がまたキラキラとする。
「じゃ、どーも」
先生はハナちゃんの手をまた握り締め、騒ぐ子犬を抱き抱える。 ハナちゃんは咄嗟に僕の手を握り締めて僕も普通に歩き出した。
このままあの動物病院まで行ってやる、そしてお金を払って子犬の事を色々聞いてやる。
そのくらいしてくれてもいいはずだ、獣医なんだから。
「パパーン、マメトコォ」
「大丈夫、マメトコは元気だよー」
子犬とハナちゃんにはそんな優しい声が出せるんですね、素気ない態度が嘘のように柔らかな声で返事をしてる。
しかもハナちゃんが繰り返した「マメトコ」は子犬の名前にもなっているらしく、それが可笑しくてバレないようにくすくす笑った。
途中で気付かれるだろうと思っていたのに不安になるほど僕の存在には気付かない。焦り始めた頃、せりざわ動物病院の前に着いてしまった。
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