狂い、

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ドアを開け、まず目に飛び込んでくるのは地下へと続く階段。初めて訪れた時はこの階段を降りてくのが怖かった。 足下だけ照らされた十段ほどの階段を降り、漸く名前も知らないピアノのジャズが聞こえてくる。 もう一つのドアを開ければそこに広がる青い照明が僕の知る世界と切り離す役目をする。 文字通り、海の底。 壁一面に熱帯魚が優雅に泳ぐ大きな水槽が置かれていて、照明は青く所々には水色のライトで照らされている店内はとても美しい。 僕と文也が足を踏み入れると、酒瓶が並ぶカウンターに立つスマートなその人とすぐに目が合う。たったその一瞬で、胸がカッと熱くなる。 微笑むその人は片桐 誠司(かたぎり せいじ)さん。このバーの経営者でありマスター。 その甘いルックスから誠司さん目当てで来る人がたくさんいると聞いたが、自分もその中のひとりだった。 「いらっしゃいませ」 落ち着いた声に耳も熱くなるが、それでもこの青い照明が秘密を簡単に消してくれる。 「こんばんは!また来ちゃいました」 「いつもありがとうございます。……いつものでいい?」 「はい」 誠司さんと文也の2人のやり取りをただ見ているだけ。 手際良く作られていくアペロールスプリッツ。白ワインとソーダ、オレンジが浮かぶ丸いグラスはすぐに僕の前に置かれる。 「いただきます」 文也は誠司さんに言うと僕とグラスを合わせ乾杯してから一口飲んだ。 爽やかなオレンジと少しの苦味、さっぱりした後味のアペロールはこの店で教わった味。 「陸も此処に来てからだいぶ飲めるようになったよね」 「お酒?」 「うん。前はからっきし駄目だったじゃん?」 「そうだよね、すぐ駄目になってた」 文也の可愛らしい大きな目は笑うと少し垂れる。文也は僕と違って存在自体が華やかだ。 色素の薄い髪と同じヘーゼルアイが大きな目を印象深いものにしている。 誰にでも好かれる文也がこんな地味な自分とこうして友達になってくれたのは、本当に奇跡だと彼が笑うたびに思う。 「そうだ、あの話聞いてみようよ」 文也の目がまた垂れて僕にけしかけてくる。 「嫌だよ、その話はしないって約束でしょ」 「いいじゃん、陸だって気になるでしょ?」 文也の言っている「あの話」は誠司さんの事だ。 誠司さんは端正な顔立ちから女性ファンも多く、今日みたいにカウンターに座れるのも珍しいくらいだ。でも誠司さんは誰にも靡かない、それが一人歩きしてゲイじゃないかと噂になったと聞いた。 ただの噂。 そんな事を誠司さんに聞くなんて絶対に嫌だ。
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