狂い、

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院内に入ると遠くで犬の鳴く声が聞こえてくる。 胸に抱いている子犬は脇下から顔を出して辺りをクンクンしていて、震えが少し緩和されたような気がした。 程よく暖かい病院はどうやら二階が住居になっているらしく、先生は普段着のまま僕の腕の中から子犬を抱き上げた。 「寒かったのか?お前、何処から来た?」 愕然、犬が相手だとどうやらすこぶる優しいようだ。それは良かったけど相変わらず僕に向ける視線は冷たさを孕んでる。言葉も温度が低い。 「警察に連絡したの」 「いえ、警察に連絡するんですか?」 「いいや、こっちでするから」 警察に連絡するとか相談するなんて想像もしてなくてただ捨ててこいとしか言われなかった。先生は椅子を指差してそのまま子犬を診察室に連れて行く。 どうやら座れってことかなと、柔らかな椅子に腰を下ろして深いため息を吐いた。 少し落ちつく、暖かいし、緊張が解れて。 あの先生の顔に似合わずとても可愛い院内だ。犬や猫の絵がいっぱい、子供が描いた絵まで色んな場所に貼ってあって。 あのムスッとした顔で貼っているのかと思うと何だかおかしく思える。 背もたれに体を預けて自分の手を見れば子犬の茶色の毛がたくさんくっついていた。 震えて怯えて、何とか隠れようと必死だった子犬はこれからどうなるんだろう。 先の見えない不安は子犬だって人間だってそう変わらないはず。 「保護するから」 突然現れて先生はそれだけ言う。背もたれから体を離してその先の話を待ったが、どうやら本当にそれだけらしく沈黙が流れた。 「あの、入院?ですか?」 「連れて帰れるの」 「あ、あのアパートで」 「だろ」 言葉数が少な過ぎてどうしたらいいのか分からない。しかも返事が早くて何を訊ねればいいのか頭も追いつかない。財布を取り出そうとジャンパーのポケットを弄ると先生は興味を無くしたように二階へと上がって行った。 「ハナー!起きたかー!」 「あーい」 「ご飯だよー」 可愛い女の子の声が遠くから聞こえてくるとそれと同時にキャンキャンと犬の鳴き声まで。 帰っていいよとか、お金とか色々あるだろうと思いつつ、暫くその場で待っていたがいつまでも降りてくる様子はなくて動物病院を後にした。 この日ほど心底職場を嫌いになったことはない。 黙って耐えて、生きるためにも耐えて。 文也に連絡して飲みに行こうと誘ったが、どうやら仕事が忙しいらしくて今日は無理だと断られてしまった。 すぐにボロアパートに帰る気にもならなくて、かと言ってあの獣医と顔を合わせてまたあの冷たい対応をされるのも今は気が滅入る。 電話だけしてみようか、そう考えて発信履歴から『せりざわ動物病院』に電話をかけた。
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