天狗とポン酢の颪和え

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 まぶたを開けると、くすんだ色をした木造の天井が見えた。  絵真は掛け布団を退かして身を起こし、その場にゆっくりと立ち上がった。半開きの目で周囲を見ると、昨夜は部屋の中央にあった座卓や座椅子が、壁際に置かれているのが見えた。 「陽子さん?」  視線を左右に動かしながら、絵真は声をかけた。返事も人影もなく、畳に敷かれた布団も、絵真の分だけのようだった。  陽子は自宅に帰ったのだろうと推察はできたが、追加の酒瓶が運ばれてきた辺りから記憶が茫洋としていて、実際のところは思い出せない。  飲み過ぎたのだろうか、と絵真は思う。普段あまり酒を飲まないため、絵真は自分にとって適切な酒量が分からなかった。とはいえ、二日酔いを思わせる症状はなく、むしろすっきりと清々しい気分ではあった。  絵真は窓のある広縁の方へ歩いていった。窓際に立ち、勢いよくカーテンを横に滑らせると、まばゆい朝日が部屋の中を照らすように差し込んでくる。  目を軽く細めながら、絵真は窓の外に視線を向けた。ガラス越しに見える空は、淡い青色で満たされている。旅館の入口前に立つ柳は静かに佇み、風に枝葉を揺らす気配はなかった。  穏やかな朝の風景を一通り眺めてから、絵真は広縁の中央に置かれた机に目を向けた。  机の上には天狗の絵が刷られた白いポリ袋が置かれ、袋の口からラベルのない透明のガラス瓶が見えていた。取り出してみると、無色に透き通った液体が、瓶の中の半分ほどを満たしている。昨晩使った椪天の残りを、陽子は置いていったようだった。  ポリ袋の方は、くしゃくしゃにシワがついているところを見るに、絵真が上着のポケットに丸めて入れておいた袋のようだった。自分で取り出したのか、陽子が勝手に上着を探ったのか、記憶がなく判然としない。いずれと決める根拠はないが、何となく絵真は後者であるような気がして、ふっと苦笑を浮かべた。  ガラス瓶を袋に入れ直し、畳敷きの方へ戻ろうとして、絵真は「あれ?」と足を止めた。  広縁の机の下に、大きな鳥の羽根のようなものが落ちていた。絵真は中腰になって手を伸ばし、ほっそりとした根本を指先でつまんで拾い上げた。姿勢を戻しながら羽根を顔の方へ近づけてみると、柚子に似た柑橘の香りが微かに薫ってくる。  形は鷲の羽根に似ているようだった。烏を思わせる艶やかな黒を基調として、先端へ向かうにつれて朱色が混じっていく。  ひらひらと向きを変えながら、絵真は魅入られたように羽根を眺めた。頭の中で小さな記憶の欠片が、この羽根に見覚えがあると囁くように訴えかけていた。 「あっ」  絵真は目と顎を大きく開き、叫ぶように声を上げた。  机の上に置かれた白い袋に向かって、絵真は矢を射るように視線を飛ばした。放たれた視線は、袋の表面に印刷された、陽気に踊る烏天狗へと的中する。愉快げに笑う天狗の背中には、朱色の入り混じる黒々とした翼が生えていた。 「……まさかね」  手に持った羽根と天狗の翼を見比べながら、絵真はぽつりと言った。  広縁の机の傍に置かれた椅子に、絵真は倒れ込むように腰を下ろした。指先で羽根を小さく揺らしながら、ぼんやりと窓越しの空を眺める。  ふと、薄く伸びた雲の間をくぐって、大きな鳥のような、人影のような何かが、翼をはためかせ飛び去っていく姿が見えたように思えた。 「また、会いに来ます」  幻視とも錯視ともつかないその背中へ向けて、絵真は話しかけるように呟いた。  誰に聞こえるはずもないが、どこかの空の下、あるいは空の上で、誰かが嬉しげに笑ってくれた気がした。
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