天狗とポン酢の颪和え

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 風に乗って飛んできた白いポリ袋に視界を塞がれ、笠野絵真は「もげ」と間の抜けた声を上げた。  ポリ袋はそのまま絵真の顔に張りつき、即席の仮面となった。袋からはほんのりと柚子のような香りが漂い、絵真の鼻腔を微かに刺激する。  絵真がもげもげと呻きながら袋を引き剝がすと、香りは吹き荒ぶ風にかき消えていった。  はあと荒い息を吐き、絵真は手に持ったポリ袋を睨むように見た。ばさばさと風に揺れる袋の表面には、黒地に朱色の混じった翼を広げ、両手に瓶を掲げて踊る烏天狗の絵が印刷されていた。  機嫌よく大笑する天狗の傍には、古めかしい書体で「甲夜酒店」と刷られている。  絵真は軽く目を見開き、肩に掛けたボストンバッグから、青色のカバーに覆われたスマートフォンを取り出した。メモアプリを起動し、「目的地リスト」という表題のメモを開く。飲食店や博物館、神社仏閣などの名前が羅列されている中の最上段に、ポリ袋に印字されているのと同じ店名が、感嘆符を添えて書き込まれていた。  絵真は小さく頷き、アプリを閉じて青い端末をバッグにしまった。  白いポリ袋に再び視線を向ける。周囲にゴミ箱の類はないようだった。絵真は袋をくしゃりと小さく丸め、上着のサイドポケットに押し込んだ。  よっ、と声を上げてバッグを掛け直し、絵真は向かい風を受けながら歩き始めた。  それなりに傾斜のきつい坂が、吹きつける風のせいで余計に上りづらくなっている。やや冷たい晩秋の空気を顔中に浴びながら、絵真は足を動かし続けた。  気温の下がる時期になると、跡之原(あとのはら)では時おり山颪(やまおろし)が吹く。  ウェブや観光誌を当たればすぐ見つかる程度には知られた情報であり、絵真も知識としては理解していた。とはいえ、山から吹き降りる風は想像より強く、巨大な扇風機に前進を阻まれるような感触があった。  明日には収まるといいけど、と絵真は思う。これほど風が強くては、市街を歩くのもままならない。跡之原に滞在する間、絵真は「目的地リスト」に挙げた各所を巡るつもりでいたから、歓迎できる気象状況ではなかった。  とりわけ重要なのは、甲夜酒店へ行くことだった。  飲める歳を一つ越えてはいるが、絵真はさほど酒が好きというわけではない。跡之原に有名な地酒があるわけでもないが、それらとは別の目的のために、絵真は甲夜酒店を訪れたかった。  椪天(ぽんてん)、と絵真は口の中で呟く。  弾むような語感を持つその言葉は、非常に希少なポン酢の名称とされている。ごく少量しか生産されず、限られた幸運な人々のみ口にできる幻の美味。  ウェブ上を中心として、それなりの範囲に流布している話題ではあったが、実際に椪天を見たという証言はほとんどない。ごくたまに書かれる目撃談も、空想が尾鰭を揺らして泳いでいるような、信憑性の薄い胡乱な話ばかりだった。  味覚を強烈に刺激する濃厚な味だという話もあれば、口に含んだことを実感できないほど希薄な味だという話もある。透明に澄んだ色のない液体だという話もあれば、宇宙の暗黒物質に似た漆黒の液体だという話もある。山中奥深くの仙境に生る幻の果実を使った品だという話もあれば、天狗の神通力によって作り出される人智を超えた品だという話もある。  椪天についての言及はどれも霧のように朦朧として、実像を捉える役には立たない。そもそもの実在さえ疑わしくはあったが、それでも絵真は椪天の存在を信じていた。というより、母の言葉を信じていた。  絵真の母は、椪天を見たことがあると言った。  見ただけでなく、口にしたことすらあるという。絵真は単なる雑談のつもりで母に椪天の話をしたが、予想外の反応に顎をあんぐりと落とした。  絵真は詳細を母に尋ねたが、三十年近く前の出来事らしく、はっきりしたことはほとんど覚えていないようだった。絵真の母は大らかな気質で、あまり細かいことは気にせず、過ぎたことはさっさと忘れてしまう。そういう母のさっぱりした性格を、絵真は好ましく思っているが、この時ばかりは少々恨めしい気分だった。  一応のところ、「跡之原に旅行した時、知り合った地元の人にご馳走してもらった」という話を聞くことはできた。相手の名前も連絡先も分からないが、その人物が「甲夜酒店」と書かれた袋を持っていた覚えはあるという。  調べてみると、甲夜酒店という名前の酒屋は、現在も跡之原に存在していた。あやふやな記憶に基づく頼りない情報ではあったが、幻のポン酢に繋がる糸を掴んだ気がして、絵真の好奇心はぷくぷくと湯のように湧き立った。  甲夜酒店に行けば、椪天の実物を見られるかもしれない。そうでなくても、手がかりくらいはあるかもしれない。淡い期待に基づく皮算用が、絵真に旅の計画を立てさせ、そして実行させた。  母との椪天問答から二週間ほど経った今、絵真は跡之原の地面を踏んでいる。  長い電車行の後で、すでに日は沈みかけていたが、絵真としてはすぐにでも目的の酒屋へ向かいたかった。とはいえ、甲夜酒店は駅から離れた場所にあり、加えて山颪も荒々しく吹き続けている。  絵真は渋い柿を食べたような表情をしながら、差し当たって風から逃れるため、一直線に宿へ向かう道筋を進んでいた。
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