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山から降りてくる風は、段々と勢いを増していくようだった。
前方から度々飛んでくる木の葉や小枝を腕で払い除けながら、絵真は坂の上へ向かって進む。ちょっとしたアクションゲームだな、と呑気に思っていると、鼻高天狗の格好をした人物の写真が印刷された大判のポスターが真正面から飛んできた。
絵真はぎょっと表情を強張らせ、砂浜を走るカニのような足さばきで体を躱した。ポスターに刷られた天狗は不規則に肢体をくねらせながら、風に押されるままに市街の方面へと飛び去っていった。
はああと大きく息を吐いて、絵真は手の平を膝に置いた。烏天狗の絵が刷られたポリ袋といい、妙に天狗と縁がある日のようだった。
「まるで言い伝えみたいだ」
風の音に消える程度の声で絵真は呟いた。
絵真も特別詳しくはないが、ウェブや観光誌の情報によれば、跡之原には天狗にまつわる伝説がある。
山颪が強く吹き荒ぶ日、山奥深くに住まう天狗が、風に乗って人里に降りてくる。天狗は山中でのみ採れる希少な果実を人々に振る舞い、代価に多くの酒と野菜を求め、その場で次々と平らげていく。やがて山颪が吹き止む頃、天狗は人々の饗応に満足し、翼を広げて再び山へと帰っていく。
古い文献や口伝に由来する天狗話は、仔細の異なるいくつかのバリエーションはあるものの、概ねこのような筋立てになっているという。
絵真が目撃した光景は、天狗が少々平たくはあるが、伝説の一端の再現と言えないこともなかった。この後ポスターが果実を振る舞い、酒や野菜を食らうならば、より完全な再現となるだろう。印刷物にそれが可能かはともかくとして。
絵真は首を左右に軽く振り、益体もない思考を頭から追い出した。
ぐっと拳に力を入れ、飛来物に気を払うため前方を見据える。再び歩き出そうと絵真が足を踏み出した時、木の葉でも小枝でも天狗でもない、横長の物体が近づいてくる様子が目に入った。
物体は空中にはなく、坂の上をごろごろと転がっていた。距離が縮まるにつれて、円筒状をしたガラス瓶の姿が見えてくる。ラベルの類で覆われてはおらず、透明な表面をむき出しにして坂道を駆けていた。
絵真は中腰になって腕を地面の間近まで伸ばした。ぱちんと軽い衝撃と共に、瓶が手に収まる。
背筋を再び起き上がらせ、絵真は手に握った円筒の容器に目を向けた。数百ミリリットルほどの容量がありそうな、手頃な大きさの瓶だった。凹凸のあるアスファルトの斜面を転がってきたにも関わらず、表面はつやつやとして傷一つ見当たらない。握った感触はがしりと固く、かなり丈夫な作りをしているようだった。
遠目では空のようにも見えたが、間近で見ると中身があり、真っ白い蓋で密封されている。僅かな濁りも色もなく、ひたすらに透き通った液体が、容器をいっぱいに満たしていた。
「ありがとう、受け止めてくれて」
不意に声が響き、絵真は一瞬ガラス瓶が喋ったように錯覚した。
顔を跳ね上げ辺りを見回すと、坂のすぐ上から人が歩いてくる様子が目に入った。
腰まで伸びた長い黒髪と蜜柑色をした着物の袖を風に揺らし、草履履きの両足をしなやかに動かしている。早足ではあるが慌ただしい印象はなく、引き締まった微笑を湛えて歩く様は、凛とした気品を感じさせた。
「あなたのものですか?」
瓶を掲げてそう問いながら、絵真は心中で首を傾げていた。
つい先ほどまで、前方に人の姿はなかったはずだった。脇道の類も見える範囲にはない。視線の先にいる着物の人物が、唐突に虚空から現れたような印象を絵真は受けていた。
見逃していたんだろうか、と絵真が不思議がっているうちに、着物の人物は絵真のすぐ手前まで近づいてきた。
「ええ。うっかり落としてしまって……」
着物の人物は言葉を継ぎかけたが、絵真と視線が合った途端、「あら」と訝しげに目を細めた。
彫像のようにぴたりと体の動きを止めて、着物の人物は絵真の顔をじっと見つめた。切れ長の目から放たれる視線に気圧されて、絵真は一歩後ろに足を下げた。
「あなた、見覚えがある気がする」
着物の人物は絵真の肩を掴み、自分の方へぐいと引き寄せた。互いの顔と体が近づく。絵真はぱくぱくと口を動かし、困惑と気恥ずかしさの混合物を「えっ、あ、えっ」という音声として発した。
「目元、鼻筋、頬の輪郭……どうしてかしら、見れば見るほど憎たらしい顔つき」
着物の人物の目つきが、抜き身の刀のように鋭くなっていく。肩を掴んだ手が離れ、絵真の顔へ向かって素早く伸びた。身を躱す間もないまま指で頬をつままれ、絵真は「ふべ」と珍妙な悲鳴を上げた。
指先がくいくいと小刻みに動き、それに連動して絵真の頬が小刻みに伸びる。
「や、やめてください」
頬が伸びて喋りづらいのをどうにか堪えながら、絵真は言った。
つままれて痛いというほどではなく、頬に触れる指先のさらりとした肌触りが、むしろ快くすらあった。とはいえ、会ったばかりの親しくもない相手に、「顔つきが憎たらしい」という受け入れがたい理由で頬を弄ばれたくはなかった。
「ああ、ごめんなさい。知り合いのような気がしたのだけど、きっと別人ね」
着物の人物は邪気のない笑みを浮かべて、絵真の頬から手を引いた。離したばかりの指を見て、「中々のつまみ心地」と満足げに呟いている。
庇うように頬を手で覆いながら、妙な人物に出会ってしまった、と絵真は心中でため息を吐いた。
「これ、どうぞ」
絵真は自分の頬をつまんでいた手に、拾ったガラス瓶を押しつけるように渡した。「それでは」と小さく会釈をして、着物の人物の隣をすり抜けて坂道を進もうとする。
すり抜けが成功する前に、再び肩に強い力がかかった。
「ありがとう。お礼をしなくてはね」
愉快げな調子で着物の人物は言った。絵真は引きつった笑顔を作り首を横に振ったが、着物の人物も「遠慮しないで」と首を横に振って返した。
「私、早久陽子と言うの。よろしくね」
名前を告げた朱い口元に、涼やかな微笑が浮かぶ。それは凛々しい様相ではあったが、絵真には獲物を見つけた妖怪の顔に見えた。
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