0人が本棚に入れています
本棚に追加
「なかなか良い具合ね」
薄い灰色をした小ぶりな鍋を眺めながら、陽子は言った。
絵真は鍋の中身に目を凝らした。豆腐、水菜、えのき、しいたけといった具材達が、熱い湯の中にその身を浸からせている。
食材の入った灰色の鍋は、綺麗に磨かれた木製の座卓に陣取っていた。鍋を囲うようにして、箸や小皿、湯呑みといった食器が並ぶ。
それらの置かれた右方に、同様の小型鍋と食器類がもう一塊並んでいる。二つの鍋の中間には急須や醤油差し、そして絵真が坂で受け止めた、透明の液体が入ったガラス瓶も置かれていた。
机の周囲にはいくつかの座椅子があり、そのうちの一つに絵真は座っていた。右隣の座椅子には、陽子が腰を下ろしている。
畳の上に足を投げ出し、絵真は落ち着かない気分で目線をふらふらと動かした。
部屋を囲む壁や柱は少々色あせているが、置かれた家具類はつやつやとして新しい。床の間には掛け軸が飾られ、犬のような狐のような、正体が判然としない四足歩行の動物が墨絵で描かれている。
予約しておいた旅館の一室に着いてから、数十分ほどの時間が経っていた。
吹き荒ぶ山颪から解放され、絵真はほっと安堵していたが、心の底からはくつろげずにいる。
絵真は横目で隣の様子を窺った。強風とは別の懸念が、時代劇の主題歌を口ずさみながら小皿を手に取っていた。
早久陽子と名乗った着物の人物は、それが当然というような顔をして、宿へ向かう絵真の隣を付いてきた。長く伸びた坂を上り切り、風に揺れる柳の下をくぐって、古色ある門構えの旅館に着いてなお、陽子は絵真の傍から離れようとしない。当人は礼をするためだと主張するが、絵真としては悪霊に取り憑かれたような心境だった。
この人、一体何者なんだろう。
陽子がガラス瓶の蓋を外し、中身の液体を小皿に垂らす様子を眺めながら、絵真はぼんやりと思う。
座卓に並んだ鍋や食器は、透明な液体入りの瓶を除いて、旅館の従業員が用意したものだった。絵真は食事がつかない素泊まりのプランを予約していたから、これは本来受けられるサービスではない。追加の料金を払ったわけでもないが、陽子が一声頼んだだけで、従業員は嬉々として二人分の夕食を準備してくれた。
陽子はこの旅館に対して、何らかの影響力があるようだった。玄関に足を踏み入れた際も、出迎えた従業員は至極丁重な態度で陽子を歓待した。偶然一緒にいただけの絵真も、陽子と同様に賓客のような扱いを受けた。格安プランの対価としては全く見合わない待遇に、絵真はかえって恐縮する気分でとぼとぼと廊下を歩いた。
旅館のスポンサーか何かだろうか、と想像を転がしているうちに、絵真はどこからか柚子に似た香りが漂ってくることに気づいた。さっぱりとして瑞々しく、仄かに甘やかな空気が少しずつ部屋に満ちていく。
香りの根源を探して視線を動かすと、陽子の手前に並べられた、透明な液体が注がれた小皿に行き当たった。
「もう少し待ってちょうだいね。すぐに済むから」
別の小皿に同じ液体を注ぎながら、陽子は言った。注ぎ終わると別の皿を手元に寄せ、同じ動作を繰り返す。段々と濃くなっていく柑橘の気配を感じながら、絵真は陽子の手さばきを眺めた。
四枚の小皿に液体を注ぐと、陽子はガラス瓶に蓋をして机に置き、代わりに醤油差しを手に取った。四つ並んだ小皿のうち、右端にある皿の上部に醤油差しを持っていき、ゆっくりと傾ける。
絵真は「あっ」と声を上げ、身を乗り出して皿の中身を注視した。
何の色もなく澄み切っていた液体が、数滴の醤油と混じり合った途端、真っ黒い色をした液体へと変わっていた。それは醤油の褐色とも違う、全ての光を飲み込むような純然とした黒だった。
どこか宇宙を思わせる姿に絵真が見惚れていると、陽子は別の皿にも醤油を垂らした。その皿の上でも同様に、新しい宇宙が生まれていく。
満足げに朱い唇を歪めて、陽子は醤油差しを二つの鍋の間に置き直した。透明の液体が入った小皿と、黒い液体が入った小皿が、二枚ずつ机の上に並んでいた。
陽子は透明液の皿と黒液の皿をそれぞれ一つ指先で掴み、絵真の手前に動かした。
爽やかな柑橘の香りと微かな醤油の香りが鼻腔をくすぐる。静かにしていた絵真の臓腑が香りに刺激されて暴れ出し、腹の辺りでごうごうと叫び声を上げた。
「さあ、いただきましょうか」
陽子が滑らかに腕を動かして、観音像のように両手を合わせた。絵真も手を合わせたが、腹のうなりに急かされ、すぐに離して箸を素早く掴み取った。
手前に置かれた小ぶりな鍋へ箸を入れ、そうっと豆腐をつまみ上げる。ふるふると揺れる白い立方体を皿まで運び、その身の半分ほどを透明の液体に浸す。
ごくと唾を飲み込み、絵真は豆腐を口の中に入れた。
殊更変わった味ではなかった。柑橘の香りに包まれた、豆腐と出汁の淡い風味。ただそれだけのものが、信じがたいほどの旨味を発揮し、絵真の舌を幸福感で叩きのめした。
透明の液体自体の味はほとんど感じられないが、液体のない箇所と食べ比べてみれば、美味さの違いがはっきりと分かる。不可思議な味わいではあったが、陽子が注いでくれた透明の液体が、優れた調味料であることは疑いなかった。
舌に残る余韻を感じながら、絵真は鍋からもう一つ豆腐をつまみ取った。今度は黒い液体に浸し、口の中へ放り込む。
火のような味が舌の上を走った。柔らかな豆腐の食感と瑞々しい柑橘の香りに乗って、濃厚な辛さと痺れるほどの酸味が口内を駆けていく。強力な刺激と美味の入り混じるそれは、心身に燃え上がるような熱情を湧き立たせ、絵真は夢中になって豆腐を咀嚼した。
口の中はすぐさま空になった。絵真は箸を皿に乗せ、長い息を吐きながら座椅子にもたれかかった。豆腐を二切れ食べただけで、何もかも満ち足りたような安らかな気分だった。
骨のないクラゲのように脱力する絵真を眺めながら、陽子はくすくすと軽やかな笑い声を上げた。
「お気に召したみたいね。瓶のお礼にはなったかしら?」
陽子の問いかけに対して、絵真は半ば重力任せに首を動かして頷いた。
ガラス瓶を拾って陽子と出会ったことを、絵真はどちらかといえば不運の部類だと感じていた。それがひとたび美味な食事を馳走してもらうと、むしろ幸運な巡り会いのように思えてくる。単純すぎる心理だと絵真自身も思わないではないが、美味いものは美味いのだから仕方のないことではあった。
あの調味料は何ですか、と陽子に尋ねようとして、何も言わず絵真は口を閉じた。ガラス瓶の中身について絵真はすでに、ほとんど確信に近い予感を胸中に抱いていた。
「あまりそれらしくはないけれど、これはポン酢なのよ」
ガラス瓶の表面を撫でて、陽子は言った。
「特別な材料と製法を使った、たいへん珍しいもの。毎年少しずつしか作れないから、市井に出回ることは滅多にないわ」
「やっぱり、これが」
絵真は背中を起こし、蛍光灯の光を浴びて煌めく透明のポン酢を眺めながら、嘆息交じりに「椪天」と呟いた。
「あら、知っていたの?」
陽子は訝しむような鋭い調子で言った。「あなた……」と言葉の切れ端を継いで、そのまま何も言わず押し黙る。
椪天から陽子へと視線を動かして、絵真はぎょっと背中を反らせた。坂道で見たのと同様の、研ぎ澄まされた刃を思わせる目つきが絵真に向けられていた。
居合のような速さで陽子の腕が閃き、絵真の頬を再び指で捉えた。先ほどと寸分違わない位置に、さらりとした陽子の指先が触れる。その感触は決して不快ではなかったが、不可解ではあった。
「えっと、あの……どうしたんですか」
絵真は困惑を声に込めて言った。二度目の体験だからか、陽子の奇行に慣れ始めたからか、今度は珍妙な悲鳴ではなく言葉を発することができていた。
「ねえ絵真。私とあなたは初対面?」
「そう、だと思いますけど……」
「そうよねえ。そのはずよねえ。こんな頬の感触に覚えはないし」
むにむにと絵真の頬を動かしながら、陽子は言った。
「けれど私、覚えている。あなたと同じ姿をした人間に、こうして椪天を振る舞ったこと。あれはあなたではないの?」
力強い視線が絵真に向けられている。真っ直ぐで切実な感情を映した凛々しい瞳に、絵真は一時の間見惚れそうになったが、頬を好き勝手にひねり回される感触で我に返った。
同じ姿をした人間。
陽子の言葉のひと欠片を、絵真は頭の中で繰り返した。自分の記憶を信じるならば、それが絵真自身であるはずはない。よく似た別人と考えるのが妥当ではあった。
絵真は以前見た一枚の写真を頭に思い浮かべていた。
それは三十年近く前に撮られた写真だったが、絵真はその光景の中に、いるはずのない自分の姿を見出した。写真の人物と絵真は、体格も顔つきもそっくりで、絵真はドッペルゲンガーを目撃した気分になった。
写真に写ったその人物を、絵真はよく知っている。写真を見せてくれたのは当の本人だから、当然のことではあった。
「その人、『ひろみ』って名前でしたか」
絵真は写真の人物の名前を口にした。
陽子の目がゆっくりと見開かれ、朱い唇の端が微かに持ち上がっていく。
「そう、そうよ、ひろみ。知っているのね? ということは、つまり、あなたは……」
「娘です。陽子さんが前に会ったのは、きっと私の母だと思います」
絵真の言葉を聞いて、というより聞く直前に、陽子は花を咲かせるように顔を綻ばせた。
「そういうからくりだったのね。ああ、すっきりした。あなたと出会ってからずっと、最中の皮が歯に貼りついているみたいな気分だったの」
陽子は弾んだ調子で言って、時代劇の主題歌を口ずさみながら絵真の頬を四方八方へと引っぱり回した。絵真は「ぐべえ」と奇怪な悲鳴を発したが、幼さすら感じる邪気のない笑顔を見ていると、やめてくれとも言い出しづらい心境だった。
最初のコメントを投稿しよう!