天狗とポン酢の颪和え

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「あの日も椪天の瓶を落としてしまったの。今日とは違って、すぐに自分で拾ったけれどね」  陽子はそう言って、薄茶色の酒器を口元で傾けた。 「それで、持っていた袋に瓶をしまおうとしていたら、ひろみが話しかけてきたの。『それ何ですか』って、呑気そうに笑いながら」 「母は人見知りをしないので。どこへ行ってもすぐ知人を作るんです」  苦笑交じりに絵真は言った。陽子は「そういう人だったわねえ」と目を細め、器を左右に小さく揺らした。  絵真は自分の手前に置かれた器を手に取って、そっと口を寄せた。微かな柑橘の香りと共に、熱すぎない程度に温められた、柔らかい口当たりをした酒が口の中に流れ込んでくる。  鍋の中身を食べ切った後、陽子は再び従業員に頼んで、別の料理と酒を持って来させた。  陽子は器をぐいぐいと傾けながら、白菜やかぼちゃ、里芋といった野菜を使った品々に次々と箸を伸ばしている。絵真の腹は鍋だけで満たされていたから、酒だけを少しずつ飲み進めていた。  酒には陽子の一存によって、椪天がいくらか混ぜてある。椪天入りの酒はほんのりと甘やかで癖がなく、それほど酒が好きでない絵真も、抵抗なく飲むことができていた。 「ひろみとも一緒にお酒を飲んで、夜遅くまで話をしたわ。とても楽しい時間だった」  空になった器を机に置いて、陽子は懐かしむように言った。 「必ずまた会いに来ます、なんて嬉しいことも言ってくれたのだけど。結局一度も来ないんだもの、憎たらしいわ、まったく」 「多分、忘れてると思います……」 「そうよねえ。そういう人よねえ」  陽子は口元を苦く微笑ませながら、大根おろしとほうれん草の和え物に箸を伸ばした。和え物をつまみ上げ、「口を開けて」と当然のような調子で絵真に言う。  絵真は戸惑って眉根を寄せた。口を開けるとどうなるかは推察できるが、何故急にそうするのかは分からない。  もごもごと絵真が口元を動かしてばかりいると、陽子は「早くしないとつまむわよ」と脅しつけるような口調で言った。無論酒のつまみではなく、頬のつまみを指しているのは明白だった。  絵真は上顎と下顎を弾き飛ばすように素早く口を開いた。  ひと呼吸の間を置いて、口の中に爽やかな野菜の風味が入ってくる。顎を閉じて噛みしめると、柔らかな苦味を伴う力強い旨味が、波紋のように広がっていった。  和え物には疑いなく、椪天が加えられていた。表情が加速度的に緩み崩れていくのを抑えられないまま、絵真は舌から伝わる美味にしばし夢中になった。 「幸せそうね」  くすくすと小さな笑い声を上げながら、陽子は絵真を愉快げな眼差しで見つめた。絵真は顔を隠すように手の平を掲げたが、陽子はその手を掴み取って動かし、握手のような格好に仕立ててしまった。 「今の一口は、瓶を拾ってくれたお礼とは別。きちんと対価を払ってもらうわ」  絵真の手を捕まえるように握って、陽子は言った。 「ねえ、あなたは私に何をしてくれる?」  朱い唇を凄絶に歪め、陽子は禍々しい笑みを浮かべた。より正確に評すると、禍々しさをわざとらしく誇張した笑みを浮かべた。  絵真は吹き出すように短い呼気を吐いた。微振動する体に連動して、握られた手が小さく震える。 「じゃあ、また会いに来ます。それでどうですか」  可笑しさの吐息が混じった声で言って、絵真は陽子の手を握り返した。  陽子は恐ろしげな表情を瞬きの間に崩して、邪気のない満面の笑顔を咲かせた。 「きっとよ。忘れないでちょうだいね」  歌うような調子で言って、陽子は握った手をぶんぶんと上下に振り回した。  かつてない可動を見せる自分の腕を眺めながら、絵真は小さく苦笑を浮かべた。これほど奔放で奇矯な人物は、母のようにマイペースな気質でもなければ、忘れようにも忘れられるものではなさそうだった。  とはいえ記憶というものは、ふとしたことで移ろうこともある。絵真は握った手に少しだけ力を込め、そこから伝わるひんやりとして滑らかな感触を、できるだけ覚えておこうとした。  副産物として振り回される腕の感覚も記憶に強く残ってしまいそうだったが、どうにも致し方のないことではあった。
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