第一話 どうかお幸せに

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 綾子との出会いは高校二年生の時だった。  当時の彼女は天沢綾子という名前で現れた。親の都合で香織と同じ学校へ転校して来た綾子は、美しく、知的な雰囲気の少女だった。  長い黒髪をきっちりと結っており、背が高くてスタイルもいい。なにより印象に残ったのはその瞳だ。まるで全てを見透かされているような鋭い眼差しが、彼女をよりミステリアスに見せていた。  誰もが彼女に注目していたし、それは香織も同じだった。  当時クラス委員長だった香織は、先生に言われて綾子に声を掛けに行った。 「天沢さん、クラス委員長の森宮香織です。よかったら校内を案内させて」  すると彼女は予想に反し、輝くような笑顔を浮かべたのだ。 「うん、ありがとう!」  クールで近寄りがたい雰囲気だと思っていた綾子は、想像していたよりもずっと人懐っこくて魅力的な微笑みを見せてくれた。  同性の笑顔に一目惚れをしたのは、初めての経験だった。  昔から香織は真面目で明るい性格だけが取り柄だった。男の子と付き合ったことは何回かあったものの、本気の恋愛はしたことがない。子供の恋愛ごっこみたいだと思っていたし、ちょっと冷めた感覚でいた。  それでも自分は異性愛者だと思っていたから、彼女を好きになった自分にひどく驚いた。  これは恋じゃない。彼女は綺麗だから心惹かれるのは当然だ。きっとなにかの勘違いだと自分に言い聞かせながらも、香織はすぐに綾子と打ち解けた。  放課後には二人で下校をして、休日になると一緒に遊んだ。背が高くて大人っぽい綾子と、童顔で小柄な香織のコンビはよく目立っており、男子の間では「天沢派か森宮派か」などという話も密かに交わされていたらしい。  それでも綾子は周囲からの告白をすべて断っていたから、恋愛には興味がないのだと思っていた。後日、綾子には前の学校に恋人がいて、遠距離恋愛中だと知った時は一晩中泣き明かしたものだが。  思いを伝えられないまま親友同士になり、思いを伝えられないまま卒業した。  それぞれ別の大学へ進んだが、休みになるとどちらかの家を訪ねては一緒に勉強をしたり映画を見たりして過ごした。  ただそれだけの関係だったが、香織は楽しかった。いつかは彼女に自分の気持ちを伝えようと決心していたが、結局その機会は得られないまま彼女とは少しずつ疎遠になってしまった。  ――綾子と再会したのはそれから何年も経過した後だ。  大学を卒業してから就職をした香織は、少しずつ心を病んでいった。毎日の仕事はつらく苦しいものだった。パワハラに耐え、先輩には仕事のミスを押し付けられ、同僚の男からは付きまといに遭っていた。  その上プライベートでも失敗続きだ。交際していた男性とはうまくいかず、友人とも喧嘩をしてしまい、家族にも心配される始末。  そんな日々に嫌気が差していたけれど、それだけならまだぎりぎりで耐えることもできただろう。  だけど香織は、ある日上司に連れられて行った店で偶然にも彼女と再会を果たしたのだ。  一目見た瞬間にわかったが、綾子はすっかり大人の女になって、さらに美麗になっていた。そんな彼女が自分を見るなり駆け寄ってきてくれたことが嬉しくて、香織は思わず顔をほころばせていた。  けれどすぐに喜びは絶望へと変わった。  嬉しそうに目を細める彼女の薬指には、冷たい輝きを放つ銀の指輪がはまっていたのだ。 「久しぶりだね、香織」  動揺を隠すように笑顔を浮かべる香織に、綾子は昔と同じように優しく微笑んでくれた。綾子の指輪から目をはなせずにいた香織の視線に気が付いて、彼女は「あぁ」と呟くと指輪を撫でながら言ったのだ。 「結婚したの。相手は幼馴染みで、私には勿体ないくらい素敵な人よ」  突然の結婚報告だった。  香織の知らない間に、綾子の名字は「天沢」から「神崎」に変わっていた。幸せそうな表情を浮かべる綾子を前にして、香織はどうにか笑顔を作るのがやっとだった。  楽しかった彼女との思い出の日々がよみがえる。  どうしてあの時告白しなかったんだろう。  せめて一度でも想いを告げていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに。  この出来事をきっかけにして、香織の心は壊れていった。
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