(6)思い出

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(6)思い出

彼女は雨が好きだった。6月が好きだった。それは、なぜ?と聞いたことがある。キミは頬を赤くそめて答えた。ある大切な人との紫陽花の思い出があるから。 手紙が着く五か月前、バーテンの大人の女性に恋をした。いつもオロオロする僕の話しをゆっくりと頷いてくれる。 強い酒も飲めるようになった寂しさから毎晩通った。酔いがまわると彼女の後ろに紫陽花の色の残像が舞ったように見えるから。彼女が笑うと鮮やかに。静かに遠くを見つめていると、淡く消えそうに。さまざまな色合いに時には、無口になりながらも居心地よく何杯も飲んだ。 僕にとっての〈アジサイのキミ〉。 居心地の良く可愛らしい人(女性)だった。 初めての恋人、そして婚約者でもあった。 本当なら8月に結婚して今頃は、 休日に二人一緒にストーブでも 買いに行っていただろう。 丁寧に封筒を開けると指輪が一つ入っている。 これはあなたのお父さんから貰った結婚指輪。 昔、お母さんの指にはめてあったもの。 見覚えがあるでしょう? 本来なら形見。 あなたへお返ししたいと思っています。 手にとって近くで見ると 銀色の細かい傷があり、 日常を感じさせる指輪だった。 しかし鈍い光になっても 輝いている。 心がいまだに生きているように。 目を閉じ、思い出の 母の左手の薬指を見た。 懐かしい手触り。 探していたよ。 あの時に必死に探しても 決して見つからなかったのに。 今、キミのおかげで しっかりと手の中で 握りしめることが出来た。 小さな小さな丸い輪は 小雪が降り始める程の寒さなのに 湯たんぽのように暖かい。 安堵で口元が緩む。 ありがたくて両手で握り一礼した。 額に擦り付けると、 自然と「ありがとう」の言葉が溢れた。 涙も一緒に瞼の端から 同じように流れ土の上へ濡れ落ちる。 薄っすらと積もり始めた小雪が消え、 小さな闇がひとつひとつ明らかになっていった。 指輪の内側を確かめると 父と母のイニシャルと共に 〈白く清らかに美しく咲く紫陽花の君へ永遠を誓う〉 と指輪の端から端へ一周するように、 永遠に終わらないよう続いていくように刻印されていた。 母は離婚した後に父の思い出を語る際に この指輪の内側を見せながら、 楽しい話しを聞かせてくれた。 それは僕の小学生低学年の時から。 いま思えば、なるべく僕へ 父のイメージを良くするような 長所の話しが多かった。 (キミにとっては僕の前の彼。そして同じく婚約者) 親子二人だけの。 一間の狭い6畳の部屋の中で。 裸電球一個の弱い光の中を左の薬指を照らし、 笑顔を見せていた精一杯の母の涙目を思い出す。 そんな指輪の持ち主の母は 既に僕が中学生の時に 災害によって亡くなっている。 その後に父とキミは、 出逢ったのだろう。 続。
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