私が前髪を伸ばす理由

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 やっと鼻頭まで伸びてきた前髪。母はそれをつまんで、こう言う。 「そろそろ、前髪切ったら?」  その度に、私は否定する。過去何度か清潔感がない、邪魔だ不愉快だと、グチグチ文句を言われることもあったが、今はそんなに強く言われることがない。簡単に言えば、呆れられているということなのだろう。気になどしていないが。  さて、おそらく疑問を抱く人もいると思う。前髪なんて、伸びてきたら邪魔なだけじゃないかとか、極々一部の意見だろうが、可愛い顔が隠れて勿体ない……など諸々。しかし、私にはこの前髪が必要なのだ。邪魔で、たまに目に入っては痛覚を刺激する、この前髪が。  理由はいくつもある。私自身、目つきがあまり良くない。普通にしているだけでも睨んだだとか、目が気に食わないだとかでいちゃもんを付けられていじめられたこともあった。  それに、顔だって自信がない。他人から可愛いなど言われたこともない。親にすら言われた記憶がないのだ。だから、それを隠すためというのもある。だが一番の理由は、なにより見たくないものを見えないようにするためだ。ほんの気休め程度にしかならないことだって分かってはいるが、こうするしかないという考えに至ってしまったわけで。  とはいえ、改善などするつもりがない。どうせ、そうしたところで評価などしてくれる人間などいないのだから。私なんていてもいなくても変わらない存在なのだ。そう、思っている。 ──学校、なんて憂鬱な響きなんだろう。あんなもの、なくなってしまえばいいのにと何度考えたか、もう分からない。  いつも一人で登校し、一人で授業を受け、一人でご飯を食べ、一人で下校する。こんな日々の中に楽しさなんてあるわけがない。ただ現在、いじめられてないことだけが不幸中の幸いといったところだろう。  今日もまた自分の席に座り、鞄の中から薄汚れた本を取り出した。これは無名の作家の作品。くだらない戯言がダラダラと書き綴られている本。 『目隠し』  どうしてこんなものを書き記したのだろうか、今この作家……過去の自分に問いただしてやりたい、呪ってやりたい。この冊子を見るたびにそう思う。なのに、思い入れが強いだけに何度も読み返してしまう。そんな本なのだ。 「あいつ、またあの汚い本読んでるぞ」 「なんか不気味なんだよなー」  ぼそぼそと、男子が話す声がする。興味なんてないない連中だ、勝手に言わせておけばいい。 「やめろよ。同じ本だって、何度読んでも面白いものだってあるんだから」 「そういうもんなのかねぇ」 「そもそも本読まないし、分かんねーや」  誰かが先程の男子たちに加わる。 ──やめろよ。  私を卑下するものではなく擁護するような言葉、それに思わず顔を上げてしまった。初めて味方が出来たような、そんな感覚。いや、違う……初めてじゃない、二人目か。  一人目の味方、それは私の父だった。そんな父とよく似た雰囲気を纏った男子がこちらへと歩いてくる。慌てて視線を逸らし、本のページをめくる。そのページには、こんな文が書いてあった。 『なにも見たくないのに、見てしまった。だから世界は壊れた。見えないようにしろ、見ないようにしろ。後悔してからじゃ遅い』  このふざけた本は……過去の私は予言でもしているのか? いや、その考えの方がふざけている、バカバカしいと言って笑われてしまうな。 「いつも同じ本を読んでるけど、それって誰の作品なの?」 「……」 「タイトルは『目隠し』か。でも作家名が載ってないんだね、不思議な本だ」 「……」 「あ、ごめんっ、急に話しかけちゃって!」 「……ごめんなさい」 「ううん、大丈夫だよ。僕が悪いんだから謝らないで」 「……はい」 「本、好きなの?」  私は、ゆっくりと頷いた。 「実はさ、僕も本が好きなんだ。でね、ちょっと興味あるんだ、その本」 「これ、が?」 「名のない作家の作品。その少し奇妙な感じに惹かれちゃってね」 「じゃあ……」  そうは言っても興味なんてないだろうと思いながらも、試しに本を差し出してみる。すると彼は、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに柔らかい笑みを浮かべて本を受け取った。 「ありがとう、読んでみるね。あ、せっかくだからさ、また読み終わったら感想を話し合おうよ」 「えっと……まぁ、気が向いたら」  彼は、またびっくりした表情をした。そして「楽しみにしてるよー」と言って去った。何故あなたはそんなに笑えるの? こんな私と、価値のない人間と話しているのに。それから、不思議な彼の笑顔が頭から離れなかった。  帰宅後、母に話しかけられる前に部屋へと戻る。私は母が嫌いだ、その母も私を嫌っているようだが。  私の家には父がいない。簡単な理由で、小さい頃に出て行ってしまったからだ。あの日見せた父の笑顔が、私の脳裏に焼き付いて離れない。涙ぐみながら、謝罪の言葉を繰り返す母の顔も忘れることが出来なかった。父が出て行った原因のくせに、よくもまぁ、あんなにみっともなく泣けるものだ。  それに、元々私は父と共に暮らすはずだったのを母が阻止したのだ。この子は連れて行かないで、と。今となっては余計なことをしやがってと思う。もうあれから九年も経ってしまったのか。  そんなことを考えていると、急に背後から声がした。 「あんた帰って来たのに、ただいまぐらい言えないの。何回も言ってるよね?」  勝手に部屋の戸を開けて入ってくる母。まったく、ふざけている。 「あんただって、人の部屋に入る前にノックぐらいしてって散々言ってるじゃん、変わんないでしょ」 「なにを偉そうに……!」 「私に説教出来る身分なの? 普段はこっちのこと気にしないくせに」 「はぁ? ガキが調子乗ったこと言ってるんじゃないわよ!」 「私は……私はいつまでも子供じゃないんだよ。早く出てってよ、顔を見たくない……!」 「あ、あんたが生活出来るのは誰のおかげよっ、恩を仇で返しやがって!」 「いいよ、じゃあいい出て行くよ。こんなとこ、いられないしいたくないから」  近くにあった大きめのかばんを取り、タンスの中の服を適当に詰め込む。 「あんた……何してるの……?」 「なにって、見たら分かるでしょ。出ていくんだよ」  母の方に顔も向けずに言い放つと、凄い勢いで私にしがみついてきた。 「やめてよ、母さんを一人にしないでよっ!」 「そんなの知るもんかっ、あんたがどうなろうと私には関係ない。どうだっていい!」 「やめて……やめてよ……」  私の言葉と行動に泣き崩れる母、そして苛立ちのあまり壁を殴る私。 ──あぁ、みっともない、馬鹿らしい。こんなの望んでなかったのに。どうしていつもこうなるのだろう。  大人気ない声をあげて母が泣き、それを見下ろしながら私は自己嫌悪に陥る。もうここにいたくない、出て行けたらどんなに楽か。そんなことを思う。でも、出て行けないのが現実。友人どころか親類との関わりもない私に、頼れる人間なんてどこにもいないのだから。こんなことなら、父の連絡先を聞いておけばよかったと心から思う。  その晩、一睡も出来ずに気がつけば朝を迎えていた。母に気付かれないように、こそこそと家を出て学校に向かう。いつも通り、1人歩く道。天気は曇っており、過ごしやすい天気だ。淀んだ空気が非常に心地よい。  学校に着いたら、本を開こうとカバンを漁った。が、見当たらない。なぜかと思い、少し焦ったがすぐに思い出した。 ──あぁ、貸したことをすっかり忘れていた。 「今日は、来るの早いんだね」  突然、背後から声が聞こえた。少しビクッとしたが、優しい声で誰なのか分かる。 「おはよう、ございます……」 「うん、おはよう。この本返すよ」 「あっ……はい」 「凄い内容だった。一つ一つの描写が細かくて、感情移入しやすい。だから自分が主人公に成り代わって、体験しているかのような気持ちにさせる……。この作家さんは凄いよ!」  目をキラキラさせて語る彼。 ──凄いんですかこんな駄作が、くだらない戯言が。  口を突いて出掛けた言葉を飲み込み、他の言葉を考える。 「そんなこと、ないと思います」 「えっ?」 「こんなふざけた作品が凄いなんて、そんなこと……ないです」 「でも僕はそう感じたんだ。だから君だって何度も読み返すんじゃないのかな。作者の気持ちがぎっしりと詰まっているこの本を、遺書にも似たこの本を」 ──やめて、それ以上私の心をかき乱さないで。お願いだから。 「私は、供養のような……そんな気持ちでページをめくるんです。こんな、こんな意味の無い言葉を書き連ねたものに価値なんて……微塵も、ないです」 「えっと、君は何を言ってるの。供養とか意味のない言葉とか……」 「理解なんて、求めてないです。その、ごめんなさい」  席を立ち、不安定な足取りで教室を出る。そしてそのままトイレの個室にこもり、泣いた。人に当たるなんて最低だ、クズだ、どうしようもない大馬鹿者だ。何故理解者になりかけている人を突き放してしまうんだお前は、本当にどうしようもないやつだな。そう、誰かに言われている気分になってくる。所謂自己嫌悪というやつなのだろう。だから……だから、言っただろう、昔の私が書いていただろう。 『見えないようにしろ、見ないようにしろ。後悔してからじゃ遅い』  彼は、これを読んで何を思ったのか。これは暗く救いようのない話だ、前向きな言葉も気持ちもない。救われなどしなかった私の心の声だ。おそらく、これから先もそんなことはない。愛されることだって、ない。  いろいろ考えすぎて脳がパンクしそうだ。キリキリと痛み、悲鳴をあげている。まるで、私の言葉にならない叫びを代弁しているような、そんな気がした。やはり、私は暗く冷たい闇の先を見てはいけないのだろう、光を……希望を持ってはいけないのだろう。少しでも心をときめかせた自分が悪かった。私には、やっぱり目隠しが必要なんだ。何も見ないように、見えないように。  あの後、教室に荷物を置いたまま家に帰った。 「あんた、どこに行ってたの……答えなさい!」 「学校だよ。でも、具合悪くて帰ってきた」  階段を登る私の背後から母の金切り声が聞こえてくる。それに対して適当に返す。 「どうして顔を合わせようとしないの。そんなにお母さんが憎い?」 「うん、そうだね、憎いよ。なんで私を産んだの、こんなに辛い思いをするなら産まれなければよかった」 「なにかあったの。相談くらいしてくれたっていいでしょ、親子なんだから」 「親子、親子だって? 普段は私のことなんて気にもかけてないくせに。こう言う時に限って親子だなんだって言うの? はっ、バカじゃないの。それに、あんたの言う通り親子だって言うなら、私の気持ちくらい察してよ、分からないでしょ。所詮は赤の他人なんだって」  頭が混乱していた。もやもやと黒い渦のようなものがたくさんあって、思考がまとまらない。だから思いつく言葉を立て続けに放つだけの作業。多分、今の私はやり場のないこの気持ちをどこかにぶつけたいだけなんだ。きっとそうだ、少しすれば落ち着くはず。そう、思っていた。 「ねぇ、私に前髪を切れって言ってたよね。切らない理由、教えてあげようか」  一切振り向かずに、そう口にした。頭の中をぐるぐると回っている渦が広がっていくのを感じる。 「私は、なにも見たくないから伸ばしてるの。これは目隠しの代わり。気休めかもしれないけど」 「なにも見たくないって。あんた、バカなこと言ってないで頭髪くらいちゃんとしなさいよみっともない、そんなのは逃げって言うのよ。それに今聞いてるのは──」 「やっぱり、理解してもらえないよね。そう……だよね、はは、何を期待してたんだろう」  私のことを理解してくれる人なんていない。今までも、これからも。そんなこと分かってたのに、期待してしまったんだ。母ならもしかしたらって、本気で心配してくれているならって。でも、もう無理みたいだ。絶望とは、このことなのだろうか。頭が働かなくなって、全てがどうでもよくなった。  階段を登り、自室へと入る。母が何か叫びながら後ろをついてきている気配を感じたが、もうどうでもよかった。私は机の中にしまってあったモノを取り出し、自分に突きつけた。 「や、やめなさいっ、あんたなにしてるの⁉︎」 「見たら分かるでしょ……?」  私に死ぬ勇気なんてない。だが、何故かこうする勇気はあった。私は母をキッと睨みつけ、言い放つ。 「私はこれから、あんたに迷惑をかける。要らなくなったら捨てればいいから」  母が口を開き、なにか言おうとする。しかし、そこから言葉が出ることはなかった。その代わりに、キンキンとした悲鳴が耳を劈く。  それもそのはずだろう、私は突きつけたカッターナイフで、二つの眼球を切り裂いたのだから。 「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ‼︎」  目元からドロリとした生温かい液体が流れ、頬を伝う。手に持つカッターを落とし、その場に蹲る。目を開け、薄っすらと見える私の視界。そこに入った最後の光景は、幼い頃の私としかめっ面の母、そして優しい笑顔の父の写真。そんな、気がした。  その後、私は病院へと運ばれた。眼球左右共に損傷が激しく、視力の回復は望めないとのこと。こちらとしては願ったり叶ったりだ。それを聞いた母は、入院した三日後に姿を消した。どうせその程度だったのだ。  そして去った母と入れ替わるようにやって来たのが……。 「喉、渇いてないか?」 「大丈夫だから、仕事行ってきなよ。忙しいんでしょ?」  そう、何年も会えなかった父だった。懐かしい声音に毎度ホッとする。 「今日は休んだから気にするな、いい有休消化になったよ。あと、あいつから聞いたよ、なにも見たくないから眼切ったって」 「ごめんなさい。でも、それ聞いてどう思った?」 「うーん、そうだなぁ……正直、俺に似たんだなって思ったよ」 「えっ?」  思っていたものとは違う回答に驚いた。てっきりなにしてるんだーとか、ふざけるなーとか。そういうことを言われると思っていた。 「俺も学生時代、死んだ魚の眼だとか言われてたからね。それに、目つきが悪かったから嫌だったもんだよ。それにうちも親が離婚してたしな」 「……そっか。この眼、父さんに似たんだね」 「おかげで、辛い思いをさせたな。ごめん」 「ううん、私が弱かっただけだから。こっちこそ、本当にごめんなさい」 「気にするな、お前は何も考えずにゆっくり休めばいいから」 「そうする。あ、ねぇ父さん、今更だけどなんで帰って来たの……?」 「大事な娘のためだ、別れた嫁のことなんて関係ない。あいつ、今どこに行ったかわからないしな」 「そう……なんだ」 「もう気にしなくていい、これからは父さんがそばにいるからな……って、目の前から消えてたやつが何言ってんだって感じだな……。すまん、ちょっと飲み物買ってくるよ」 「うん、行ってらっしゃい」  父の声が震えているのが分かった。それが怒りなのか悲しみなのか、今の私にそれを理解することは出来ない。ただボーッと病室のベッドに横たわって考え事をするだけ。見えないから本も読めない、書けない。だから点字とか覚えないとなーとか。不思議と思考は落ち着いていた。他人事のような、妄想のような。 「あぁ、静かだ。そして暗い」  そう呟く私は、涙を流しながらも、笑っていた。
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