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   キルケーウイルス。  つい十数年前に発見されたそのウイルスは、普段は宿主に悪さはせず、細胞小器官(オルガネラ)に擬態して細胞分裂に便乗する形で増殖を繰り返す。しかし何らかのきっかけにより、宿主の遺伝情報を取り込んで他生物に感染、橋渡しさせる特性を持つことが明らかになった。    それを発見したのが当時、河都大学(こうとだいがく)傘下の生物進化研究所に籍を置いていた狭藤三千晴(さとう・みちはる)教授らの研究グループだ。  種の垣根を超えて遺伝情報を伝播させるこのウイルスに、狭藤教授は、神話の中で人間を動物に変える神話の魔女の名にちなんでキルケーの名を与えた。この一連のエピソードは、最近では高校生物の教科書にも取り上げられることもあると聞く。    思い返せば、わたしや柴本が高校生の頃には、この病気に関する研究はまだ始まってもいなかったはずだ。そもそも、わたしが生まれ育った特別区では、異種族恐怖症(ゼノフォビア)持ちへの配慮の一環で、獣人に関する情報が極力遮断されていたのだけれど。    ウイルス進化説――すなわち、キルケーの介在により進化が促されたとされる説は、謎に包まれた獣人たちの起源を解明する上で有力視されている、ふたつの学説の片方である。  それを裏付けるかのように、獣人の体内とりわけ生殖細胞周辺で、ウイルスが周期的に活性化と休眠を繰り返していることが判明している。    確率は低いものの系統の違う獣人同士――たとえば犬狼族と猫虎族(びょうこぞく)など――、あるいはもっと稀な例では、人間との間にすら子を為すことがあるのは、このウイルスが粘膜での接触を通じて、パートナーの遺伝情報を限定的に書き換えているのだと仮説が立てられている。    宿主の益になる振る舞いをする一方で、問題を起こすことも知られている。健康な成人であれば免疫系により即座に沈静化され、ほとんど症状はないか、あっても軽めの風邪くらいにしかならない。けれども、身体が完全に出来上がっていない乳幼児では、ウイルスの活動を免疫系が抑えきることが出来ず、しばしば重篤化する。    この一連の症状に内在性キルケー症候群の呼び名が付いたのはごく最近、ほんの10年以内のことだ。それまでは"獣人熱"などと呼ばれ、獣人、それも幼い子どもか体の弱った老人の間だけでみられる原因不明の病気として恐れられてきた。    幼い子どもが病魔に連れ去られたりしないようにと迷信に(すが)るのは、それしか出来ないとなれば無理もない話だ。そうして、健やかな成長を願って、盛大な祝い事が催されるようになった。男児に比べて女児のほうが軽症で済むことが多い――男児をとりわけ好む病魔の目を欺くべく、幼い頃には女児として育てられることも珍しくなかった。わたしの目の前にいる柴本がそうであったように。    現在もまだ、内在性キルケー症候群を完全に抑えきることは出来ないものの、それでも症状を緩和させる方法は開発されつつある。それに伴い、獣人の乳幼児死亡率もまた、以前に比べたら減りつつあると統計データが示している。
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