onze

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 なんだかすこし肌寒くて、烈己はうっすらと目を開いた。  ぼんやりと見上げた天井は何年と見続けた馴染みのものだった。  狭いベッドの上にはすでに彼の姿はなく、リビングにでも座っているのだろうかと寝ぼけまなこの烈己はゆっくりと体を起こす。 「大澄さん……?」  狭いアパートの一室は、一瞬で探し人がいないことを烈己に教えた。裸のまま烈己はベッドから降りて玄関の靴を確かめる。 「帰った……? なんで、黙って……」  大澄の行動が読めなくて混乱した烈己は慌てて携帯画面を確認するが、そこにはなんの連絡も届いてはいなかった。 「仕事? でも大澄さんが黙って行くかな……」  夢でも見ていたみたいな突然の消失に違和感しかない烈己は胸騒ぎが止まらないでいた。  朝ご飯の買い出しに外に出たのかもしれないと、慌てて服を着て烈己は玄関のドアを思い切り開いた。 「きゃあ!」と突然ドアの向こうから女性の悲鳴が上がって烈己は心臓が跳ねた。 「……浜野(はまの)さん? びっくりしたー」  瞬きしながら烈己が浜野と呼んだ相手は、烈己たち親子がここへ引っ越してくる前からこのアパートに住む60半ばの女性で、母親が事故で亡くなって以来、一人になった烈己のことをずっと気にかけてくれている。 「烈己ちゃん! 見つけたのよっ、アタシ!」 「え? なに?」  浜野は激しく興奮しながら烈己の腕を掴み、大きく揺らした。だかその顔にはどこか怯えも含まれている。 「見つけたのっ、あの日、アンタのお母さんが事故に遭った時に近くにいた男を! アタシ見つけたのよ!」 「……お母さんの事故……? どういう……」  浜野の言ってることのほとんどを理解出来なくて、烈己はひどく困惑した表情で浜野を見つめた。 「あの日、大雨の日! お母さんっ、結羽(ゆりは)ちゃんがトラックに撥ねられた時、アタシ見たのよっ、事故現場から走って逃げてく男を!!」 「えっ……なに……? そんな話俺一度も……」 「警察には言うなって言われてたの、アンタはまだ学生で、いきなり天涯孤独になって……そんなこと知って、もし復讐でもしたら大変だって……アタシ、ずっと烈己ちゃんには黙ってたのよ……。ごめんなさいっ、こんな大切なことっ……でもあの時は確証もなかったし、アンタに余計なことは言えなかった……」    浜野が辛そうに目を瞑りながら俯き、過去の懺悔を絞り出すようにして烈己へと告げるが、あまりに衝撃的すぎる真実に、烈己は頭の整理がまったくもって追いつかない。    この人は今、何を話した──?  お母さんが事故の時……そばに誰かがいた──?  そんな話、三年の間一度たりも聞かされてこなかった……。  あの日──真夏の夕立みたいに突然降り出した大雨の中、母はアパートのすぐ近くにある信号のない横断歩道を傘も差さずに渡っていて、見通しが悪かったせいで母に気付けなかったトラックがそのまま母を────。  母は即死だったらしい──。  大雨のせいか人通りもなく、目撃者もいなくて──トラックの運転手はいきなり母が飛び出してきてブレーキが間に合わなかったと話した。警察も運転手の反省ぶりから嘘をついているようには思えないと話していた。 ──だけど、そこにはもう一人誰かがいた……? 「どう……いう意味、浜野さん……、その男を見つけって……一体……」  震えながら浜野は顔を上げ、真剣な眼差しと共にゆっくり口を開いた。 「今朝ね……、二階の廊下で物音がしたからなんとなく階段の下から覗いたのよ……そしたらこのドアの前に男が座り込んでたの……」  その言葉に烈己は心臓が締め付けられた。今から彼女は一体何を話すつもりなんだと鼓動が次第に早くなる。訳の分からない悪寒が何度も背中をかけていく。 「烈己ちゃんの彼氏かなんかだと思って……アタシ、余計だとは思いながらも声をかけたの」 「え……っ」 「そしたら俯いてた顔が上がって、見たら……あの顔! あの顔だったの! あの事故の日アタシが見たあいつ! あいつと同じ顔してたの! アンタあの事故の時のってアタシが口走った途端、あいつ顔色変えて凄い勢いで走って逃げてったの! あの日とおんなじ! まるであの雨の日の悪夢をもう一度見せられている気分だった……」  青白い顔をした浜野がその時のことを思い出しているのだろうか、眉根に皺を寄せ震える唇を手で覆う。 「…………」 「そう! 絶対あいつよ! 一瞬だったけど見えたの、細身で背の高い男の姿!」  烈己はとうとう全身の力が抜け落ちて、そのまま呆気なく足元へ崩れ落ちた。 「烈己ちゃんっ……しっかりっ!」  青白い顔をした烈己は浜野に支えられながら、座ったまま玄関のドアへ背中を預けた。 「……浜野さん……、多分その男とここにいた人とは別人です……」 「えっ? でも同じ顔してたのよ?!」 「いるんです……ううん、正確にはいたんです……。もう一人、同じ顔の人が……」  浜野は烈己の言っている意味がまったくわからないようで、合点のいかない難しい顔をしていた。  烈己の体は鉛でも流し込まれたように全身が重苦しかった。もう彼を追う気力はどこにも残っていない。閉じかけた瞳に映る鮮やかな青空がやけに眩しくて、痛くて、涙が滲んだ。  なぜ突然大澄が消えたのか、浜野の言葉ですべてが腑に落ちた。  彼は多分、仏壇にある母の写真を見つけて、あの大雨の日に事故で亡くなった人物が俺の母親であることを初めて知ったのだ。  事故現場にいたのは彼じゃない、きっと彼の兄だろう。そしてそれを弟である彼ももちろん知っていた。  あの人のお兄さんは母を見殺しにした──。  雨の中車に轢かれた母を置いて、一人走って逃げた。  関わりたくなかったから?  疑われたくなかったから?  母はあの冷たい大雨の中、血を流し、ずぶ濡れになってアスファルトの上で最期を迎えた──。  どんなに辛かったろうか……  どんなに寂しかったろうか……  どんなに──悔しかったろうか……。    烈己はとうとう嗚咽を上げて泣き出した。  子供みたいに溢れてどうしようもない涙を止める方法など到底見つからなかった。  泣き声を抑えられない、震える体を抑えられない、気が狂いそう──。  俺が愛した人は── ──この世で一番選んではいけないαだった……。
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