quatre

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 その日、烈己は朝からずっと落ち着けずにいた。そして、今日ほど定時の18時が遠いと思った日はない。    昨夜の二回目の電話で待ち合わせの約束を交わした。  なぜだろう、はじめてのお見合いの前の夜でもこんなに緊張しなかったのに──烈己はあと数分で終わる勤務時間に、滑り込みするようなクレーム電話は頼むから勘弁してくれとひたすら祈る。  定時のアラームと共に烈己はパソコンをシャットダウンし、前もって決めておいた服たちに慌てて袖を通す。  おしゃれしたところでそんなもの一切彼は気にしないだろうし、気付きもしないだろう。わかっていても突然訪れた淡い恋心は、かつてモンスターと親友から揶揄された烈己からすべての牙を抜き、今や運命の王子様に会いに行くシンデレラだ。  なんとなく自分の匂いが気になって服を嗅いだ時、あの時の大澄のにおいが頭をよぎってひとり顔を赤らめる。 「ああ〜、もう。こんな姿、江には絶対見せられないっ」  急に恥ずかしくなって、誤魔化すように磨いた靴へ足を押し込んだ。  待ち合わせした駅の改札を潜った時、まだ約束より15分も早くて内心烈己ははしゃいでる自分が恥ずかしかったが、視線の先へすでに待ち合わせ相手が立っていて、吹き出すより勝手に頬が緩んで熱を帯びた。 ──お待たせ? 待った? どう言えば自然なんだろうかと烈己が頭の中をフル稼働させている間に、相手は自然とこちらを振り向いた。 「早いな」と、先にいた人間に言われて烈己は結局吹き出してしまった。 「先にいる人が言うセリフ? お待たせ」 「うん、待った」 「いや、そこは"今来たところ"って言うのがお約束でしょ?」 「待ったよ、昨日の電話切った瞬間からずっと待ってた」  真顔で当たり前みたいにそう告げる大澄に、烈己は目を丸くして一瞬声を失い、表面温度を表すように顔一面を真っ赤に染めた。 「アンタのデレまじ読めないっ、どうなってんの? なにそれ、そんなキャラじゃないだろ」 「キャラってなんだ、俺はそんなアイコン的な人間じゃないぞ」 「いや、そーいうガチなキャラの話をしてるんじゃなくって……ってなに、この時間! 折角の時間を無駄にしそう、やめよ、もう」  烈己は大澄の正面を向いていた体を翻し、駅を背にして進もうとしたが、何かに気付いたのかすぐに動きを止めた。 「あれ? 今からどこに行くって俺たち決めてたっけ?」 「いいや、会う約束しかしてない」 「……だよね。え、と、今からどうする、の?」 「……どうする、かな」 「なにも決めてないの?」 「はい」  固い人形かなにかみたいにカクンと大澄は頷いた。 「はいって、ちょっと! アンタ俺より年上なんだからそーいうところはアンタが担当するところでしょ」 「そんなルールどこかにあるのか、俺は知らん」 「ルールっていうか……っていうか、ないの? 俺としたいこと」 「したい、こと……」 「へっ、変な意味じゃなくて!」  具体的になにを言われたわけでもないのに、烈己はひとりで慌てては顔を赤らめている。それを理解しているらしい大澄はお馴染みの悪い笑みを口元へ浮かべた。 「その笑み禁止! 俺で遊ぶな!」 「すぐ怒る」 「怒ってないっ」  大澄の手首を掴むと烈己は再び背中を見せ、無抵抗な手を引きながら前を歩いた。 「どこに連れてってくれるの」 「とりあえずご飯っ」 「なるほど」 「なんなの、アンタ俺より人生の先輩でしょ」 「俺には自主性がないとよく兄貴に言われた」 「うわ、それってモテないってこと? それとも周りが寄ってくるから自分は基本待つだけってこと?」 「俺、中華が良いな」 「あっ誤魔化したっ。てかあるじゃん! 自主性っ」  弾むような二人の会話に烈己は内心くすぐったくて仕方がなかった。  初めて会ってからずっとお互いに印象は最悪で、大嫌いで──なのに今こうやってわざわざ待ち合わせまでして二人の時間を共有している。 ──不思議だ。  運命の相手なんて夢物語みたいな存在が本当に実在するなんて、信じていいのだろうかと烈己はふわふわして落ち着かない自分の心に溺れながら、戸惑いながら、心から溢れる微笑みを隠すことなく、人混みの街を大澄と並んで歩いた。
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