cinq

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 トイレに行くふりをしてこっそりカフェのお会計を済ませた烈己は、満足そうに店のドアを開いた。 「イケメンなことしないでよねぇ〜」と背後で大澄が不満を漏らしている。 「あーいうの、一回やってみたかったから。大成功〜、なんかニヤニヤしちゃう」  桜色の頬を目一杯緩ませながら、烈己は夜風に前髪を揺らした。すぐ後ろにいる大澄がこちらへ手を伸ばしているのに気付き、烈己は迷うことなくその手を取った。  暖かくて大きな手のひらが、守るようにして烈己の手をやさしく包む。 「今日はありがとう。楽しかった」  繋いだ手を軽く自分側へ引いて、大澄は烈己との距離を縮める。どきりとした烈己のまつ毛が少しだけ震えるのを大澄は見逃さなかった。 「うん、俺も。楽しかったし、どれも美味しかった」 「今度は烈己の食べたいもの食べよう」 「え〜、もうすでに今から迷いそう」 「じゃあそれ全部制覇しよう」 「いいね、賛成」  烈己はほんの少しだけ勇気を出して、大澄の腕へ頭を寄せた。ぎこちなく寄せられた頭に、大澄はこっそり小さく笑う。 「今笑ったろ」 「おっと、何でバレた」 「腕がぴくぴくって震えた、わかるよっ」  赤く拗ねたほっぺが膨らむ。わかりやすい烈己の仕草ひとつひとつが大澄の琴線に何度も触れて、大澄から大きなため息が溢れた。 「すごいため息、呆れたの?」 「追い討ちかけんな、大人しくしてなさい」 「なにそれ、俺なんにもしてないんだけど?」  不服そうな瞳が、下がった眉と共に大澄を見上げる。それを軽く見ただけで、大澄の視線はすぐに前を向いた。 「ホラ、前向いて歩きな。転ぶよ」 「そんな小さな子供じゃない」 「そうかなぁ?」 「なんだよっ、馬鹿にしてっ」  恥ずかしさを怒りの威で隠して、手を解こうとする烈己を大澄は逃そうとはしなかった。   逆に強い力で引き寄せられ、あっという間に烈己の体は大澄の腕の中へと吸い込まれる。 「……っ」  烈己が真っ赤な顔をして下から見上げるのを悪い狼が楽しそうに見守っていた。 「その顔で笑うな、嫌い」 「嫌いって言葉使うな、泣くぞ?」 「ふーん、見ててあげるから泣いてみせてよ」 「うわ、悪い子ダァ」 「それも褒め言葉だよね?」 「おー、そう来たかぁー」大澄は思わずくしゃりと大きく笑う。 「あっ!」  突然、目の前で弾けるようにして声を上げた烈己に、大澄は素直に驚き、目を瞬かせる。 「なに、突然」 「前にさ、狐って。俺のこと狐って言ったでしょ? あの意味が今だにわかんなくて、あれどういう意味?」 「……ああ、ホラ。狐は人を化かすでしょ?」 「はぁー? 俺がいつ大澄さんを化かしたんだよっ」 「最初からずーっと」 「なにそれ、意味わかんないっ」 「お〜、よく膨らむほっぺだね」  皮肉ついでにいきなり頬へキスされて、烈己の全身は瞬間凍結した。 「な、な、な、な、いま……」  油の切れたネジみたいに、烈己の頭がギギギと小刻みに動いてニンマリ微笑む大澄を見た。 「ふっ、可愛い。真っ赤っ赤」  懲りない男はわざと音を立てて、またも赤い頬へとキスをする。その度に高く短い悲鳴が上がるのが面白くてキスはどんどんエスカレートしていった。 ──艶やかな髪へ、丸い額へ、震える瞼へ、赤い鼻の先へと、何度も何度も口付けられ、烈己は今にも抜け落ちそうな膝と限界まで闘っていた。 「あそぶなぁ〜っ!」  恥ずかしさのあまり潤んだ瞳が、相手を抑止させるどころか、火に注がれた油みたいに大澄を加速させる。  胸板を殴ろうとして振り上げた両手たちを簡単に塞がれて、烈己は細い肩をすくませる。  唇同士が触れるその瞬間、大澄はぴたりと動きを止め、ほぼゼロに近い至近距離で烈己を見つめた。  震えるまつ毛の下で濡れた瞳が月夜に照らされた湖面のように輝いては揺れていて、その美しさに大澄は思わず見惚れる。 「な……に?」  ほとんど音にならない声で烈己が眉を下げた。 「うん……本当にいいのかなと思ってさ」 「なにそれ……も、おれ、恥ずかしくて死にそう……なんだけど……」 「ほんと。なんだか今にも破裂しちゃいそうだね」 「余裕こいてて……腹立つ、もうヤダ離して、無理、膝がおかしい、もう──」  ガクガクと震える膝も何もかもを支えるようにして、大澄が烈己の体を強く抱きしめ、包み込む。  一瞬だけ目の前が真っ暗になって、唇に熱が触れた。すぐに離れたものが何だったのか、烈己は頭の整理が追いつかずに、ただ瞳を大きく揺らしていた。 「はは、目ん玉溢れそう」  鼻先同士が触れて、大澄の大きな笑顔がすぐそばで咲いていた。少しだけ幼く見える初めて見る姿に、烈己は馬鹿みたいに心臓が痛くて、苦しくて……そして、なぜだかわからないけれど、涙が出そうだった。 ──これが運命?  (つむ)に触れたみたいに胸が痛い、体が痺れる。  完全に言葉を失ってしまった烈己を大澄は優しい笑みで見つめ、その髪をすいた。  大きな手のひらで頬を撫でられ、猫のように烈己は擦り寄った。無防備に開かれた白い首筋がやけに目について、大澄は腹の奥に飼った狼を必死に手懐ける。 「大澄さん……」  湿った吐息と熱を帯びた瞳が無自覚に狼を挑発して、大澄はとうとう紳士の笑顔を保てず、苦い声を漏らした。 「やっぱり烈己は悪い子だな……」 「え……?」  烈己が出そうとした次の言葉は、塞がれた唇のせいでそれ以上紡ぐことは出来なかった。
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