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結局最後までするのは許してもらえず、大澄は僧侶のように悟りを開いて煩悩をミジンコレベルまですり潰した。
「……ごめん、ね?」と申し訳なさげな顔をして肩へ頭を寄せてくる恋人に荒い鼻息だけで返事を寄越して、大澄は視線を極力天井へ向けたままだった。
「あ、そうだ。大澄さん、朝何してたの? 起きたらいないんだもん、俺めっちゃ寂しかったよ?」
「可愛い、合格!」
「ねぇ、そういうのいらないから……。何してたの?」
大澄はちらりとこちらを見ただけで、再び天井を見上げている。聞いて欲しくなかったのかなと、烈己は黙ったまま大澄の手のひらを揉んだりさすったりして一人で遊んでいる。
「……絵描いてた」
ぽそりと大澄が答える。
「えっ、絵? そうなんだ、今でも絵は続けてるの?」
「いや、もうずっと何年も描いてなかった……。けど、なんか無性に今朝描きたくなって……」
「へぇ、そっかぁ。……またいつか見せてね?」
烈己の意外な返事に大澄は少し驚いた目をした。
「……今じゃなくて良いの?」
「え? あ、うん。大澄さんが見せてもいいなって思ったら、その時見せて?」
「──じゃあ今。見せてあげる、おいで」
大澄は起き上がると烈己へ手を伸ばした。
烈己は大澄に誘われるまま素直に手を取り、今朝大澄が出てきた扉へと共に向かう。
大澄の秘密の扉を開くような初めての感覚に、烈己の心臓は勝手にドキドキと大きな音を立てはじめた。
ドアが開いた途端、烈己は目をまん丸にした。
入って正面の壁には、額に入ったカラー写真が所狭しと並んでいた。
見たことのあるその世界観は、間違いなく彼の兄の作品だ。明るくて、眩しくて、楽しくて、賑やかな人物が写っているわけでもないのに、彼の覗く世界は歌うみたいに伸びやかでのどかで、優しい。見る人を勝手に笑顔にしてしまうとても不思議な魅力を秘めているのだ。
「あ、これ」
烈己が目を止めたのは写真展で見たあの河原で絵を描く男性が写ったもので、それは展示されていたものとは少し場面が違い、絵を描いていた男性がシャッターを切ったカメラマンに気付いたのか、こちらを見て笑っていた。
「やっぱり、この人大澄さんだったんだ」
今よりずっと若い姿の大澄が兄へ声をかけているのだろうか、口を開けて笑っている。
「そう、盗撮。あいつ黙って勝手に撮ってた」
「兄弟仲良かった?」
「うーん、どうかな。この頃は良かったけど……もう最後は口さえ開けば喧嘩してたな」
「……そっか」
その言葉に烈己は、血の繋がった家族でも分かり合えない時はあると言ったあの大澄の言葉が重く蘇った。烈己は隣に立つ大澄の手を握り、腕に頬を寄せる。
烈己の頭を撫でてキスを落とし、大澄は自分が描いていた絵へと烈己を呼んだ。
壁二面に設置された天井まである棚の中で、キャンバスたちが図書館の本のようにぎっしりと並べられており、その手前にイーゼルが一台立っていた。
そこへ掛けられた真新しいキャンバスには、ベッドでうつ伏せで眠っている、ある人物が描かれていた。
烈己はそれを見て一気に顔を赤らめた。
「これ俺じゃん! てゆうか何で裸なのっ」
「だって本当に裸だったから」
「ねぇ、これ想像? 布団捲って見たの?!」
「俺が起きた時は布団なかったから……って待って! 落ち着けっ、本当だってば、冤罪反対!」
両手を振り上げて暴動に走る烈己の手首を掴み、大澄は必死に説得を試みた。
「本当だとしても俺を描くなら了解くらい取りなさい! 裸とかマジでありえないっ」
「──ほぉ?」大澄の眉がくいっと、意味深に上がった。
「……な、なに?」
「俺が寝てるのを良いことに、寝顔を携帯で撮るのは了解を取らなくてもいいのかなぁ?」
烈己は振り上げていた両手から一瞬で力を無くし、落ちそうなほど目をまん丸に見開いていた。
「な……んで、知っ……、寝て……ると思った……のに」
烈己の全身からは一気に冷や汗が噴き出した。赤く染まっていた顔が今度は白くなり始める。
「最初は本当に寝てたけど、あなたやたらと独り言が多いから途中で目が覚めた」
烈己は己の致命的ミスに絶望した。
「言ってくれたら写真の二枚や三枚、フツーに撮るのに」
「……いや、あの、その……そうなんだけど……あの、大澄さんが寝てる姿がすごく可愛くて……あの……」
白くなり始めていた頬が俯き、再び耳たぶから赤く染まりだす。
「可愛いのはどっちなの、犯すよ」
「おかっ!」
ヒッと、慄いた表情の烈己がガバリと顔を上げた。
「嘘嘘、一応今のは嘘」
「一応? 一応とは?!」
「そこはサラッと流しなさい。じゃあ、今回はお互い様ってことで」
「こっちのがサイズ大きいし、露出がすごいんだけどぉ?!」
「まあ、この部屋の中に閉じ込めてある限りは安心してよ」
「その言葉のチョイスが全くもって安心できない〜」
「見せるわけないデショ、俺だけの烈己を」
悲壮な顔をして眉を下げたままの烈己の体を後ろから抱き、その肩へ顎を乗せて大澄は共にその絵を眺めた。
「……でも、素直に嬉しいよ」烈己は抱かれた手に自身の手を添え、大澄へと頬を寄せた。
「ん?」
「大澄さんが無性に描きたくなったのが俺だなんて、最高」
「そう?」
「うん、嬉しい。ゲイジツカの伴侶には理解が必要だということも一緒に理解したけど」
「ははっ、そりゃ良かった」
「良くないっ。次から黙ってヌードはやめて、恥ずかしさで心臓がもたない」
「んー? 善処します」
「ならばモデル料を請求します!」
「今晩"美味しい夕飯を作る"でどうでしょう?」
「それは──最高!」
「安いモデルだ」
「ぐふふ、でしょお〜」
烈己は体の向きを変えて正面から大澄の胸へと抱きついた。
「好きだよ、烈己」
「うん、俺も──大好き」
大澄は烈己の体を強く抱きしめながら、十代がするみたいな青くて、純粋で、いくら蓋をしても溢れ出てどうしようもない愛情に自分自身手に負えないでいた。
──兄貴が生きていれば俺を見て、きっと笑ったはずだ。
やっぱり血は争えない、やっぱりお前は俺の弟だと、昔みたいにきっとわかりあえたんだろう──。
「……大澄さん? 泣いてるの?」
「…………もう少し、こうしてて」
「うん、いいよ。大澄さんが離してって言うまでくっついてる」
「そんなの永遠に言わない」
「あちゃー」
大澄は小さく笑って愛しい恋人の髪をすき、優しく口付けた。
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