neuf

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 大澄は赤く腫れ上がった頬を氷で冷やしながら虚な目をしていた。 「失念しておりました。貴方様が手癖の大変優秀なお方だということを……」 「今回は大澄さんの自業自得だからね!」  烈己は自分の手癖の悪さに辟易しながらも、周囲を気にしなさすぎる大澄のことを簡単に許すことも出来ず、頬を膨らませてそっぽを向いた。  結局目立ちに目立ってしまった二人は隠れるようにタクシーへ飛び乗り、行き先に迷って、結局烈己の部屋へと逃げ込んだ。 「てか、なんで俺の家なの? 大澄さんの家のが明らかに広くて綺麗なのに」 「烈己がどんな部屋に住んでるのか興味あったし、お母さんにもご挨拶をと思ってさ」 「その顔で挨拶するつもりだったの? メンタル強すぎませんか」  今の烈己からはすっかり大澄へのときめきオーラが消失していた。その姿を悲しげに思った大澄が、大袈裟に嘘泣きをしながら見つめてくる。 「一緒にご飯屋さんに行くの楽しみにしてたのに……、なんかオーダーする? 今日冷蔵庫なんも入ってない。行き先が俺の家ってわかってたら材料買って、料理頑張ったのになぁ……」 「マジかー、それは残念なことした。今度作って? そいでオムライスにケチャップで好き♡って書いて?」 「お金取るけどいい?」 「なんでだよっ!」 「なんかビジネスの匂いがしたから……」 「あなたの中のオムライス概念どこか歪んでない? もっとハートフルなのを想像してたよ、俺は」  絶望しながら告げた大澄からはすでに涙が枯れていた。  大澄は黙って手を伸ばし、その先の烈己をまっすぐ見つめた。  烈己は眺めていたスマホをテーブルへ置いて、その腕の中へとすべりこむ。肩口に頭を預けて、痛む頬を抑えている彼の腕をスッと手でなぞった。それをなにかの合図みたいに、大澄が烈己の頭へキスを落とす。  自然と視線が重なって、ようやく烈己はいつもの瞳で恋人を見た。大澄はやっと今、許されたのだ。  少し温度の高い下唇を軽く啄むと、照れた瞳を隠すように睫毛のカーテンが降りた。  深い口付けをするにはまだ少し気が早いと、大澄は恋人好みの軽くて甘いキスだけをしばらく繰り返した。  恋人の体から感じるオーラが次第に緩やかになり、大澄はどうにか烈己の色を直すのに成功したようだ。  そのまま収まりの良い腰へと腕を回しても 大きなクレームが発生することもなく、腕の中で烈己はリラックスした様子で大澄の胸に自ら抱きついていた。閉じかけた瞼が隙間を作り、そこから覗く潤んだ瞳がさっきのことを思い出しているようだった。   「殴ってごめんなさい……。でも外でキス……とか、俺、やだ……あんな人のいるところ……無理……」  瞳を揺らした烈己が、少し顔も赤らめながらポソポソと素直に心の内を吐露する。 「──うん、ごめん。俺も人生であんな衝動初めて。烈己が可愛すぎてなんか狂っちゃうんだよ、人間として大事なものが全部欠けるっていうか……」 「お、俺のせいなの?」 「せいというと語弊があるが、まぁ、主な要因ではある」 「酷くない?」  烈己は瞼を完全に開き、悲壮な色の目をして大澄を見つめた。  シリアスな空気を崩すべく、大澄は烈己のおでこに何度も口付けながら「それくらい烈己が大好きなんだよ」とこどものような言い訳を繰り返す。  むすっと膨れたピンクの頬にもキスをしながら大澄はずっと口元を緩めっぱなしだ。  そんな恋人の姿に根負けした烈己は自ら大澄の胸に頭をぐいぐいと強く押しつけた。  そんな愛しい姿に目を細めた瞬間「ぐーきゅるるー」と、烈己の飼っている腹の虫が悲鳴をあげた。  がばりと勢いよく上がった顔は今まで以上に赤く染まり、恥ずかしさで下がった口元からは、声にならない微かな高音が漏れ聞こえていた。 「聞いちゃダメっ!」  とっくに手遅れなのに、人間テンパると意味不明な行動に出るもので、烈己は今更大澄の両耳を手の平で覆った。  今にも泣き出しそうに揺れてる瞳が可愛くて、大澄は無意識に緩もうとする自身の口角に力を入れ、必死に制御する。悔しいかな「ふ、ふふ……」とそこから微かな音が漏れてしまう。 「笑うのも禁止!」  今度は口元を覆われて、自分を睨むようにして見つめる大きな瞳がさっきよりもそばに寄る。    困ったように下がった眉も、そのせいでできた眉間の皺も、赤く染まった頬も耳たぶも、なんだかすべてが愛おしい。  このΩを目の前にすると、大澄の腹の内に潜む飼い慣らしたはずの狼が、大人や人間の秩序も忘れて簡単に牙を剥く。それと同じくらい、或いはそれをも覆い隠すほど、大澄の中に眠っていた深い愛情が溢れ出す。 「早く烈己と家族になりたいな……」  誰かさんに感化されたような、そんな柄にもない言葉すら理性を介す暇なく先に口から漏れてしまう。  魔法の言葉に目の前のΩは幸せそうに瞳を震わせる。  この体を今すぐ食べてしまいたい。だけど傷付けたくもない。髪をすいて頬を撫でると、彼は無防備に首筋を晒してみせる。αの腹に潜む恐ろしい色をした欲望の存在すら知らないで──。  頬を冷やすことなど最早どうでも良くなり、大澄は両方の手で烈己を抱き締める。そして、瞼を閉じておでこ同士を合わせると深くゆっくり、息を吐いた。 「一緒に住もう、烈己。そしたらわざわざ会うための約束も、別れる間際のさようならも言わなくて済む」  大澄が珍しく真面目な顔と声をして、まっすぐ烈己を見つめている。烈己の睫毛がパチパチと瞬いて、その間から覗く丸い瞳が大澄を見つめ返す。 「…………本当に?」 「いや?」 「や、じゃない……けど、いきなりだったから頭の整理が追いつかなくて……少し未来の話って言ってたのに……、もう、全然少しってレベルじゃない」 「俺もそう思う。大人らしい計画の一つもなくて、これじゃあ烈己も不安になるよな」  声のトーンが下がった大澄の不安を打ち消すように、烈己は大きくかぶりを振る。 「ううん、そんなことないよ! 俺はね、大澄さんが好きで、大澄さんと番になるって決めた日からなんの不安もないんだ。親友には色々手厳しくツッコまれたけど、それでもなんにも揺るがなかった。自分でもびっくりした」 「──つまりそれって?」 「えっと、全部オッケーってこと! 大澄さんが今言ってくれたこと全部俺も同じ気持ち……っていうか、どうしよう? 俺、大澄さんの家族になるんだねっ、一緒に住んだら毎朝おはようと同時にすぐに会えるんだねっ」 「なにそれ、寝ても覚めても隣にいるのに?」  素直に喜びを伝えてくれる烈己の姿に、大澄は膨らむ気持ちを抑えられなくなり、笑いながら烈己を力一杯抱きしめた。烈己は腕の中で「苦しいよ」と漏らしながらも、自ら大澄の背中へ回した腕を解くことはしなかった。胸を伝って烈己のこどものように明るくて弾んだ笑い声が、心地良い音色を奏でながら大澄の体へと流れ込む。 ──大澄にとっての幸福が、姿を持ち、こうして目の前に存在している。 ──兄も、誰かの腕の中でこうやって幸せだと笑っていたのだろうか。その相手も今の自分のようにこの腕の中にいる命を一生抱いていたいと心から願ったのだろうか。  それを間違いだと自分は本当に責められただろうか──。  そんな資格が果たして自分にあっただろうか──。  自分をずっと憎んでいた──  兄を救えなかった自分に、兄を不幸にした相手に、兄は──  ただ愛しい人と幸せになりたかっただけなのに……。 「なんでかな……、幸せと悲しみは似てるのかな……。烈己といると、嬉しいのに涙が出るんだ。勿体無いよな、笑顔になれないなんて……」 「ううん、そんなことないよ。どんな顔も俺の好きな大澄さんだから、どんな顔も見せて? 大澄さんだって俺が泣いたら慰めてくれる。やさしく撫でてくれる。俺も同じようにして大澄さんに返したいよ?」  大澄の胸に頬を寄せ、烈己は上目遣いでほんのり柔らかに微笑んだ。それは普段見ることのない、どこか母性を含んだ表情にも思えた。  初めて出会ってからまだわずかな時間しか共にしていないというのに、烈己は紫陽花みたいに会うたび違う表情を見せる。一緒に前へと進むたび、ほんのわずかなその時間その距離で、彼は彼の中に隠れてあった魅力をご褒美みたいに自分に見せ、与えてくれる。 「全部、俺のせいなら良いなのにな……」  大澄はボソリと呟いた。 「なにが?」 「全部」 「もー、日本語不自由かっ」  烈己は呆れながらも、幸せそうに微笑む大澄の瞳から溢れた涙を指ですくって再び穏やかに微笑んだ。
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