onze

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 タクシーから降りた大澄は、フラフラと覚束(おぼつか)ない足取りで自宅のマンションへと辿り着いた。  重い足を引きずるようにしてエレベーターへ乗り込むが、うまく膝に力が入らずバランスを失い、壁へ思い切り背をぶつけ、そのまま床へ崩れた。  エレベーターを降りた後も壁に寄りかかりながらヨロヨロと廊下を進み、ようやく玄関扉へ手を掛ける。  扉を開くとともに腰が抜け、玄関口へそのまま倒れ込んでしまう。うまく受け身が取れなかった腕がズキズキと痛むが、それよりも眩暈が酷くて大澄はしばらくその場で動けずにいた。  瞼を閉じてはじめに浮かんできたのは最後に見た烈己の安らかな寝顔だった。それと同時にどうしようもないくらいの後悔が大澄の全身を襲った。  散々泣いて枯れたはずの涙が懲りもせずまた溢れてくる。悲しみなのか怒りなのかわからない感情の波が頭と胸の中をぐちゃぐちゃに壊しては引き裂く。耐えきれずに大澄は絶叫した。  半狂乱になりながら四つん這いで廊下を進み、アトリエの扉を開いて正面に見える兄の写真たちを睨んだ。 「花月……っ、俺はそんなにひどいことをしたか? お前を理解してやれなかったから俺はこんな目に遭うのか? 花月俺はっ…………」 ──今日ほどお前の弟であることを恨んだ日はない。 「なんで烈己なんだ……っ、なんで……俺の兄貴がお前なんだ……どうして……こんな…………」  十代がする初恋みたいに浮かれて、彼に恋をして、愛して、家族を作ることを夢見た──毎日彼がいる生活、人生を夢見た……彼が望む未来をあげたいと心から思った──なのに……。  制御できない涙たちが床へバラバラと溢れてゆく。  情けなくて妙な笑いすら込み上げてくる。  ふと、大澄は四つん這いのまま物置の扉へ手を掛けた。  その棚には三年間手付かずだった兄の遺品が片づけられており、大澄はガムテープで閉められた段ボール箱を乱暴に開いた。    箱の中には展示会に回されなかった写真や、兄がプライベートで撮影した趣味の写真たちがファイリングされていた。  大澄は何かに取り憑かれたようにしてページを捲り、何冊目に差し掛かった時、目を見開き手を止めた。 「──烈己……」  そこには今よりずっと若くて青い、学生服を着た烈己が写っていた。  ピントは合っているが目線がよそを向いている。きっとこれは兄が本人に了承を得ず、勝手に撮影したものだろう。  買い物帰りなのだろうか、あの遺影の女性が隣に並んで歩いていた。  そんな母親に向かって烈己は今と変わらない優しい笑顔を向けている。 ──その何気ない二人の日常を……自分の兄が奪った……。  別の日の写真は母親の女性が一人で歩いているものだった。  兄は何を思って彼女を撮っていたのだろうか──。  兄は彼女に死ぬまで嫉妬し続けていたのだろうか──。  愛する男のΩ──。    大澄は下半身を引きずってそばにある壁へ体を預けた。  大きくため息をついて、膝の上へ烈己たち親子の写真が入ったスクラップを投げ出す。  三年経った今でもあの事故の日のことを忘れたことはない──。  いつものようにアトリエで絵を描いていた大澄へ兄から突然電話が入り、スピーカーで何気なく聞いたその声はひどく動揺して怯えていた。  そして、次の瞬間恐ろしい言葉を兄は口にした。  兄は目の前で、ある女性がトラックに撥ねられる姿を見たと言う──。  正しくは、自分を庇い轢かれてゆく女性の姿を…………。  泣き叫ぶようにして掛かってきた電話口で兄は目の前で起きた出来事すべてを告白し、自分はどうすれば良かったのかと弟へ何度も問うた──。    大澄は何も答えることが出来なかった──。  あまりにも惨烈な真実に、何を伝えれば良いのかその場凌ぎの言葉すらわからなかったのだ──。  言葉を選びあぐねている間に、電話口の兄の様子が急変した。突然痛みを訴え出し、苦しそうに唸り声をあげ、いくらこちらから話しかけても唸り声が聞こえるばかりで返答がなかった。  そのうち声は無くなり、携帯電話は無情に打ち付ける激しい雨音だけを響かせ続けた。  大澄は、ひどい耳鳴りと共に、すべての音がなくなるような錯覚に陥った。そして、双子の本能がを悟らせた──。 ──兄は死んだのだと。  雨の中、なにをどう探せば良いのかわからない大澄が一心不乱で弟の家の周りを探し回っていると、携帯が着信を知らせた。  画面には見たこともない番号が表示されていて、大澄が震える指で応答すると、電話の向こうの相手は静かに兄の死を伝えた──。 ──兄は三回目に授かった胎児を流産し、そのまま出血性ショックで冷たい雨の中、命を落とした。  奇しくも自分を庇った女性と同じ日に、彼はまだ見ぬ我が子とともに天に召されたのだ──。 「俺が代わりに死ねばよかった……、お前じゃなくて俺が──、そうすればお前は夢にまで見ていた愛する男との間に子どもを産んで、家族になれた……。そして俺は烈己を不幸にせずに済んだ……傷付けずに済んだんだ……」 ──なのに、生きているのは俺なのか……。  何のために?  愛する人を傷付け、失い、誓いは全て嘘になった。  夢を見させるだけ見させて、すべてを壊した──。  αの本能よりも、大澄天地としての魂が選んだ、誰よりも愛しい人──。 「泣き虫で、どうしようもない……、あんなにも優しい子を……傷付け……ひとりにした……」    きっと今頃絶望して泣いているだろう──。  すべてを悟り怒り、自分たち兄弟を憎んでいるかもしれない──。 「どうして……」  俺たちは出会ってしまったんだろう…………。
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