onze

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 何度連絡しても繋がらない親友の携帯に痺れを切らした江は、秀を連れ直接家まで押しかけた。  だが、チャイムを何度鳴らしても中からの応答がない。 ──三年前のあの日も、烈己は江の連絡に一切反応を示さなかった。  その時も江は今みたいに烈己の家へ無理矢理押しかけ、母親の四十九日が過ぎるまで烈己の家に入り浸るようにして過ごした。  当時の烈己は、立ち止まって泣く暇もないほどあらゆる手続たちに追われていた。学業との両立でくたくたになりながら、夕飯を食べ終わったと同時に寝息を立てているような毎日だった。  四十九日の法要が終わり、自宅の畳の上で烈己は手足を投げ出し、大の字になって大きく伸びをした。 「終わった〜!」  そう口にした烈己の体はこの一ヶ月と二週間あまりでうんと痩せていた。  十七歳がたった一人で、この世にたった一人だけの家族の死を見送った。それがどんなに辛く、どんなに絶望的だったか──。  なのに烈己は、親友へ向かって「ずっとそばにいてくれて、俺に付き合ってくれてありがとう」と、感謝を告げると、柔らかに微笑んでみせた。  その時の笑顔があまりにも痛くて、辛くて、今泣いていいのは自分じゃないのに、江は我慢出来ずに大泣きしてしまった。  その姿に驚いた烈己は、必死に江を宥めようと抱き寄せたが、反対に江から抱き締められ、痩せて背骨が浮き出た背中をゆっくりやさしく撫でられる。 「……頑張った、よく頑張ったな、烈己。もういいよ、もう大丈夫、全部放りだしていいよ。もういいんだ」  その言葉に、烈己を奮い立たせていた全てのものが体からバラバラと音を立てて外れてゆく。重くて重くて、投げ出したくても投げ出せなかった義務や現実の鎧たち。もう脱いでもいいんだよと、江はやさしく何度も言ってきかせる。  そして烈己は堰を切ったように泣き出した。  こどものように嗚咽を上げて、狂ったように泣きちぎった。  突然理不尽に訪れた悲しみや苦しみ、怒りすべてを喉から叫び声と共に吐き出して、溢れた涙で流してゆく。  悲しみと同じくらい烈己は怒っていたのだ。  母を殺したトラックに、  自分を一人にした母に、  母に怒りを覚える自分に──。  だけどもう終わった。  怒りを感じることにもう良心の呵責で苦しむこともない。  もういいんだ──と、烈己は親友の肩へ顔を乗せ、深く大きな安堵のため息をこぼした。 「俺、ひとりじゃないね。ずっとここに江がいた……」  穏やかな笑みを浮かべながら烈己は静かにそう告げた。 ──その時、江は誓った。  烈己を絶対ひとりにしない、孤独にしないと。弱くて何もできないΩだと世間に蔑まれても、絶対にそれだけは譲らない。  たとえ烈己を幸せにすることが自分の役目でなくても、烈己を悲しませないようにすることが自分の役目なんだと江は心に決めたのだ。  なのにまた、三年前のあの日に逆戻りするのかと江は怯えた。  また重い鉄の扉の向こうに烈己は閉じこもって、ひとりで泣いているのだろうかと江は恐ろしくて仕方なかった。      江は良くないことだと知りながらも、外壁と雨どいを使って秀を烈己の部屋がある二階のベランダへと登らせた。  不用心にも窓の鍵は開いていたらしく、秀はそのまま窓を開いて中へと姿を消した。 「変なことしてないよね……ねぇ、烈己……」  不安に押し潰された江の瞳はすでに溢れた涙で濡れていたが、自身の涙に構うことなく、江は玄関のドアを開くのを祈りながらもジッと睨みつける。  玄関の鍵が内側から開いた瞬間、江は外から勢いよくドアを開き、うまく脱げなかった靴たちを乱暴に投げ捨て転がるようにして室内へ飛び込んだ。 「烈己っ!」    リビングに烈己の姿はなく、いつも綺麗にしてあった部屋が脱いだものや食べたもののゴミたちで荒れていた。  すぐさま寝室に向かうと、ベッドから烈己の小さな頭が覗いていて江は慌てて駆け寄る。 「烈己っ、烈己!!」  そこには真っ白な顔をした烈己が赤ん坊のように横向きで丸くなって眠っていて、深い眠るについているのか、そばで叫ぶ江の声がまったく届いていないようだった。  烈己からはアルコールの強い香りしていて、江はすぐに中毒を疑う。慌てて携帯を取り出した江を秀が冷静に止めた。 「コイツはそんなに飲めないよ。無理しようにも飲み込めずに先に吐き出すタイプだ。寝たまま吐いた様子もないし、寝息もいたって平均的だ。ただ酔っ払い潰れて寝てるだけだろ」 「でも……」  秀の前で狼狽える心細そうな恋人の姿が珍しくて、もう少し見ていたいと不謹慎で悪い心がざわつくのをどうにか振り払って、秀はおもむろに烈己の腕を掴み、耳元へと口を近付けた。 「起きろっ! 烈己ッ!!」  α特有の強い波長を含んだ叫び声に、目の前にいた江ですらビリビリと鼓膜が鳴り、視界がチカチカして全身が震えた。 「ギャヒャアッ!!」と、烈己は目の前に雷が落ちて瞼の中で火花が飛びるような錯覚に陥り、上半身を大きく揺らして一瞬で覚醒した。  何が起こったのか全くわかっていない、ショックを受けて呆然としたまん丸の瞳がぐるぐると揺れている。 「──起きたか?」 「……え……秀? なんで……、あ、江も……? え?  なに、どうしたの?」 「どうしたのじゃないっ! 全然電話も出ないしっ! チャイム鳴らしても反応ないしっ! お前に何があったんじゃないかって俺……」  江はとうとう堪えられずに、大きな瞳からボロボロと涙を零した。 「江っ」  動揺した烈己が、泣きじゃくる親友の背中を必死に撫でながら、もう片方の手で頬を拭う。 「ごめん、心配かけて……。でも大丈夫、生きてるよ」 「本当に心配したんだからな……俺、本当に……」 「うん……うん。ありがとう、江。ごめんね……、ごめん」  震える体を優しく抱きとめて、烈己は親友の髪を撫で、赤ん坊でもあやすみたいにその背中を何度も軽く叩いた。    江がようやく落ち着きを取り戻した頃、烈己は重い口を開いて自身が知ったばかりの事実のすべてをゆっくりと、親友二人へ語って聞かせた。
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