■1 戸喫のナンチャラ

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この感じだと、まずは応急手当をして、例え飼い主に無断ということになっても、病院に連れて行く覚悟が必要そうだった。 「大丈夫?こっちおいで」 できるだけ優しい口調で声をかけ、ベンチの下に手を伸ばしてみる。 でも、猫はシャーッ、という威嚇の声を上げるだけだった。 しかも、辛そうな動きとはいえ、とにかく必死に、さらに手の届きにくい奥に引っ込んでしまう。 あまりにも懸命なその様子に、葵はそれ以上なにかするのは気が引けた。 強引に捕まえることも考えたが、弱っている状態の動物にとって、それがどれだけのストレスになるかを考えると、どうしても躊躇ってしまう。 ショックでさらに具合が悪くなりかねないので、捕まえることはいったん諦めることにした。 それよりも、まずはこちらに害がないことを示すために、餌をあげてみようと思いついた。 それに、とにかく食べる気力さえあるなら、あとはなんとかなる可能性がある。 それを確かめてみたかった。 さいわい、食欲の落ちた老猫用のキャットフードが、キッチンに何袋かしまってあった。 栄養価を高く調合してあり、食べやすく消化しやすい、ペースト状のタイプだ。 2ヵ月ほど前まで飼っていた猫のためのものだった。 老衰で他界したのだが、そのために買いだめしていたキャットフードを、ついつい捨てそびれたままでいた。 さっそくキッチンに行くと、食器棚の引き出しにしまいっきりだったそれの小袋をひとつ取り、適当な平皿に中味を全部出す。 ついでに、餌用とは別の、浅いボール状の皿に水も汲んだ。 テラスに戻ると、まず餌の皿を、刺激しないようゆっくりとした動きで、ベンチの奥へと押しやった。 手だけではあまり奥まで行けなかったので、掃除用のデッキブラシを持ってきて、その柄を使って、さらに押しやった。 猫は、最初は用心深く鼻をヒクヒクとさせていた。 だが、やがてしばらくすると、舌先でペロペロと餌を舐め始めた。 ちょっと待ったあと、水の入った皿も押し入れると、それも同じようにしばらく様子を見たあと、舐める。 そうやって飲み食いしている様子を見ると、なんとかなりそうな気がした。 「よしよし。そんだけ食べるんなら、怪我もきっと治るね」 そう声をかけ、もっと食べるかもしれないと思い、さらに持ってこようと部屋に入り、戻って来ると、もう猫の姿はなく、皿だけが残っていた。 どこか忍び込んだところから、帰っていったのだろうか。 もしかしたら仲良くなれるかも、と期待していので、葵はがっかりした。 ただまあ、自力で帰るほど元気になってくれたのなら、直る見込みも高そうだ。 そんことを思いながら、もしかしらたまた来ることもあるかもしれない、と、餌は捨てないでおくことにした。 一瞬でも、また猫と一緒にいた時間は、懐かしく馴染んだもので、ずっと躊躇っていた、新しい猫を飼うことを、もう一度考えようとする気にもさせる。 でも、あまりにすぐに違う猫に夢中になるのは、裏切りのような気もする。 そんな複雑な気持ちでいったん部屋に戻り、点けっぱなしだったPC画面を念のため確認すると、やっぱりまだ、緊急メンテナンスの文字が表示されているだけだった。 やはり、長引きそうだ。 葵はため息をつきながら、マンションを出た。
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