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遠江侵入
元亀三年(1572)、徳川家康は武田軍が再び遠州に侵攻したと聞いて、激昂していた。
(…おのれ、信玄坊主め、やはり謀ったか!)
元来、徳川家康とは気の短い気質のあった男だが、同盟者である織田信長や武田信玄に対しては、それを慇懃な態度で秘匿し、面貌に見せてはいなかった。
だが、信玄が“密約”をあっさりと打ち捨てたと聞けば、元来の癇気が顔を出した。
だが、東遠江を蹂躙しつつ、こちら(浜松)に向かっていると聞いて、嘆息した。
(…“川”とは天竜川の事だったのか?)
家康は心中でそう唸り、無言になり、深考した。
武田の遠州進軍路を聞けば、やはりそう認識するしかない。
ここに至る徳川、武田、さらには織田、そして今は無き今川らとの勢力争いという“道程”を鑑みると、家康が無言で深考に陥った“理由”が見えてくる。
この頃の徳川家康という人物ほど微妙な人間関係の中にいた者はいないだろう。
家康は、尾張の織田信長と同盟関係にあった。 それは幾分と隷属的な連結であり、徳川家が織田の威権の内にある、と言えるようなものである。ほぼ家臣に近い。
その織田信長は、今、南下して来る武田信玄と最近まで同盟を結んでいたが、この時(元亀三年=1572年)は既に破綻していた。
そして家康は遠江侵攻直後に、その信玄と密約を交わしていた。
話はこの時から遡って説いていかねばならない。
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