遠江侵入

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 『川を以て、領分とし、川より東は我ら(武田)が領する。徳川殿は西を領されよ』  信玄からそんな密書があったのは、この時から約三年前、家康が三河より遠州に飛来し、頭陀寺城に着陣し、近隣の動向に注視しつつ、引馬城の飯尾家の内情を探っていた時(永禄十一年=1568、十二月頃)である。  これに対し、家康は返信を送り、密約は締結された。“遠江駿河分割統治案”とも言える約定であった。  ただ、これは家康の“もう1人の同盟者”である織田信長には内密であった。  ちなみに当時、織田と武田はまだ同盟関係を保っていた。『友(織田)の友(武田)は、また友』というわけであり、信長は自身の養女(姉の娘=勝龍寺殿)を信玄の四男、諏訪勝頼に嫁がせていた。  この信長と信玄の交誼にどこまで真があるかは、怪しいところではあるが、形式上でも同盟関係であるのなら、信長の同盟者である家康は、間接的に信玄と同盟しているとも言えなくはない。  ならば、密約にせずとも良いと思われたが、それが家康にはできなかった。家康と徳川家の微妙な立場があるからであった。  織田武田の同盟締結時(永禄十一年)、信長は流浪の将軍、足利義昭を奉戴し、上洛して足利幕府を再興していた。そんな信長の周りは敵対勢力だらけであった。  京と本拠地である岐阜(美濃)を往来する信長の気持ちは『西(畿内)の平定で忙殺しているゆえ、東(武田・今川・北条)には手が回らぬ』という事であり、信玄との同盟(甲尾同盟)は、凶悪な武田家の牙爪をかわす為であった。  信長は信玄と揉めたくなかったのである。 だから信玄と同盟を結んだ。しかし、いつそれを反古にし、兵を向けて来るか分からない。  そこで、言わば“緩衝材”的に信玄と対応させられたのがら三河岡崎にいた家康である。  家康は信長から「東(武田など)の事は、任せる」とされていた。  話はさらに遡る。
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