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アクト・ライク・小野寺
私は見つめ合っている。私と。
映画館の入り口のポスターに、私がいる。しかも三人。
右の私は右下を見ている。左の私は左上を。中央の私は、現実の私と目が合っている。
ブルドッグのごとく重力に従う頬、目の下にぶら下がる黒い隈、口を囲う青い髭。俳優ではなく一般男性。正確には夕方のおじさん。より正確には、一日の売上を集計している疲れ切った私。しかも三人。
ポスターには、こんなキャッチコピーがある。
「予想どおりの展開で全米をモヤっとさせた世紀の駄作、なぜか日本へ上陸——!」
映画館から出てきた二人組の女性が私を見て、ひゃっと隙間風のような声を上げた。申し訳なさそうに会釈したものの、込み上げる笑いを我慢できないらしい。私に背を向けて、逃げるように小走りで去っていった。
笑われた。
偽映画ポスターを作った犯人め。今、捕まえてやる。
キャラメルの匂いに満たされたエントランスには、ぼちぼちでんな、と言えるくらいには客がいた。一クラス分くらいの男女がいるだろうか。通好みなミニシアター系の洋画にしては、頑張っているほうだ。小野寺くんが来る前までは、倒産に片足を突っ込んでいたのに。
叱らなければならない相手をカウンターに見つけた。ガラスケースの中でポップコーンを豪快にかき混ぜ、カップによそっている。いつ大学に行っているのか、週五日フルタイムでシフトに入る映画オタクだ。背が高くて細く、まっすぐすぎて反って見える体型は、日本刀のよう。
「小野寺くん、入り口のポスターなんだけど」
「ありがとうございます、支配人。徹夜で作った甲斐がありました」
「褒めてないよ」
「はい、ポップコーンミックスです」
「ミックス? なにそれ初めて聞いた」と驚く私に小野寺くんは一瞥もくれず、カップルの女性のほうにポップコーンを渡した。
「お待たせしました。ご注文をお伺いします」
次に来た金髪の男性客が私を見てニヤニヤ笑う。あのポスターを思い出し、私は体温が上がるのを感じた。男から目を逸らして小野寺くんの腰のあたりを見る。
「ポップコーンミックスですね、三〇〇円です」
「だからミックスって何なの? あとポスターも」
小野寺くんの身体に隠れながら、ポップコーンの機械までついていく。彼は何も言わず、キャラメル味と塩味のポップコーンを交互にカップによそった。
「どうして勝手にメニュー開発するの。うちはキャラメル味と塩味でしょ。原価とかいろいろあるんだから、ちゃんとしてくれないと困るよ」
「塩キャラメルにしたら爆売れするって言ってました」
「誰が?」
小野寺くんが顎でしゃくった方向には、何人か女性が集まってしゃがんでいた。上映時刻までお客さんが座って待てるように置いたソファーを囲んでいる。しかし誰も腰かけず、ソファーの上の丸く膨らんだ白い物体を撫でている。
「猫が言ったの?」と小野寺くんに視線を戻したあと、遅れて驚きがやってきた。再度、白い物体を見る。「なんで猫がここに!」
「映画を見に来たんですよ」
小野寺くんは朗らかに言った。カウンターに戻り、ポップコーンを小柄な女に渡す。金髪男のいかつい図体に隠れていたらしい。
「キャラメルと塩、本当に半々なんだろうな」
男は、ヤンキーが因縁をつけるときの尖った口調で言った。
「いや、キャラメルのほうが若干多めです」
「なんでだよ。半々にしろよ」
「原価が違うんです」
小野寺くん! と堪らず叫んだ。こんな男が週五日フルタイムでシフトに入っているのだ。いや、シフトから外している。なのに自主的に出勤してくる。私は自分が支配人だということを、ほとんどいつも忘れている。
今や指一本で映画の上映ができるデジタル時代。ニュー・シネマ・パラダイスのアルフレードが知ったら失神するだろうが、人手の足りない劇場には救世主だ。ユーチューブの動画を再生するのと何が違うのかな、と少し考えてボタンを押す。スクリーンに映画が現れた。
「小野寺くんって、全然お寺っぽくないよね」映写室を出て声をかける。「常にスピード違反してる感じ」
小野寺くんは、ポスターに自作のポップを貼り付けている。そのポップも徹夜で作ったらしい。彼はすぐに「徹夜」「寝てない」と言う。当然、私の指示ではない。
「俺にも映写やらせてください」
「そもそも君はシフトに入ってないよ」
とはいえ、小野寺くんをアルバイトに採用してから、劇場が明るくなった。本人は刃物のように触れるものすべてを傷つけるが、映画への情熱には頭が下がる。地味な映画にも客が入るのは、あまり言いたくないが、「徹夜」で作ってくれるポップのおかげでもあるだろう。
「平凡な男と平凡な女が出会ってくっつくどこにでもありそうな話だが、男の胸毛がこの映画を唯一無二のものにしている」
「冴えない男子高校生が学校一の美女とタッグを組んで事件を解決する恋愛アクションサスペンス。支配人が作った映画かと思った」
やめさせなければ、とは思った。ところがポップを撮影した写真がSNSでウケて、集客につながったから何も言えない。
偽ポスターやミックスのポップコーンだって、小野寺くんのセンスが溢れる集客努力なのだ。猫は偶然か必然か知らない。
私も昔は監督を夢見ていたが、小野寺くんを見ていると、私の甘やかな夢など叶わなくて当然と思えてくる。小野寺くんは、売れるかどうかは別として、監督になるだろう。そして、売れなくてもきっと辞めない。
そのとき、背後でギュッと重たい音が鳴り、胸が冷えた。
振り返ると、上映中の劇場のドアが開いて、男女二人組が出てきたのが見えた。ミックスのポップコーンの比率を気にしていた金髪男とその彼女だ。
男は小野寺くんに詰め寄る。
「映画クソつまんないんだけど。金返せよ」
うちで上映するのはミニシアター系だ。CGや効果音が派手なハリウッド映画ではない。ポップコーンのときは思い至らなかったが、風貌から察するに、うちの映画は合わなさそうではある。
我々に落ち度がなくても、申し訳ございませんでした、と言うのがサービス業だ。返金はできないが、次回使える割引券を渡せば、大抵は丸く収まる。騒がれなければ、ほかのお客に気づかれずに処理できる。
私はポケットに手を入れて割引券を——出せなかった。頭から血が引いて魂が軽くなる。昨日で割引券を切らし、偽ポスターに始まる一連の騒動のため、補充を忘れていた。
「最後まで見てないですよね?」
最悪なことに、小野寺くんが喧嘩を買った。腰履きのズボンのポケットに手を突っ込んだ金髪男が小野寺くんを見下ろす。濁点をつけて「あん?」と睨んだ。
「だから、映画を最後まで見たのかって聞いてるんですよ」
明らかに怒りを含んだ語調だ。ライオンが威嚇するときの顔で、金髪男を睨め上げる。
「つまんねえから途中で出てきたって言ってんだろ」
「映画は最後まで見なきゃわかんないんですよ。文句なら最後まで見てから言ってください」
「てめえ!」
男の顔がみるみる赤くなる。耳まで真っ赤にして、小野寺くんの顔面めがけて拳を振るう。
咄嗟に私は、小野寺くんの肩を掴んで引いた。私たちの立ち位置が入れ替わる。男の拳がぐんぐん大きくなる。近づいている。
一瞬だけ記憶が途切れ、気がついたのは床に倒れたあとだった。絨毯で良かった。
「うう……目と鼻ついてる?」
「支配人、鼻血が!」
小野寺くんが私の鼻を握りつぶすくらい強く摘んだ。視界の端で、カップルが去っていくのが見えた。
A4のコピー用紙一枚に、十二枚の割引券が印刷できる。ひとつひとつ丁寧にハサミで切り離していく。
「ああいうときは、申し訳ございません、でいいんだよ」
昭和の車掌のような声が出た。鼻血を止めるティッシュを詰めているからだ。
「なんで警察に通報しないんですか」
「私の劇場で面倒は起こさないからね。小野寺くんも割引券は常備しておいたほうがいいよ」
切り取った割引券をひらひら見せる。新幹線の切符と同じくらいの大きさだが、薄っぺらい。
小野寺くんは割引券を印刷した紙を何枚か取った。トントン、と机に落として端を揃え、ハサミを入れる。
「あ、重ねて切らないの! 一枚ずつ丁寧に切ってよ」
「早く終わらせたいんですけど」
「枠がずれたらダメだからね。綺麗に切ってください」
珍しく私の指示に従う小野寺くん。大きな違和感があるが、支配人らしく振る舞うチャンスかもしれない。
「クレームが来たら話を聞いてあげなきゃ。聞いて、自分が悪くなくても謝るんだよ。貴重なご意見ありがとうございます、改善に努めますって」
鼻に詰めたティッシュのせいで、いまいち威厳が出ない。
「割引券を渡して、また来てくださいって言えば、大事にはならないよ」
「俺だったら、本当に改善されたのかチェックしに行きます」
「暇人だな」まあ、クレーマーは暇人か。
「その人の話は最後まで聞くんですか?」
「聞くよ」
「おかしくないですか。あいつらは映画を最後まで見ないのに、俺たちはあいつらの話を最後まで聞くんですか」
小野寺くんが早口になる。
「あいつらじゃないよ。お客さま、ね」
私はブレーキをかけるように、わざと遅く喋る。
「どうして俺たちには映画が必要なんだと思いますか?」
「なんの話かな」
「幸せじゃないからですよ。幸せだったら映画なんかいらないでしょ。みんな自覚してないけど、人生やり直せるんじゃないか、まだ間に合うんじゃないかって期待しながら映画を見てるんです、本当は。最後の最後、エンドロールの終わりまで救われたいと思ってる」
小野寺くんはジャギジャギと大袈裟な音を鳴らしながら割引券を切る。
「だから、最後まで見もしないで軽々しく文句を言う奴は、俺がぶん殴って黙らせます。満ち足りた人間の慰みものじゃないんですよ、映画は」
自分が映画界を背負う大物であるかのような啖呵だ。私だったら恥ずかしくて言えないが、小野寺くんには言えてしまう。
「俺は映画に救われたから、映画で誰かを救いたいんです」
しかも、似合っている。
「小野寺くんはさあ、凄い監督になるよ」
「良い監督になれますか」
「良くはない。凄い監督。今度、サイン書いてね。目立つところに飾るから」
まっすぐすぎて少し反っている。それが小野寺くんなのだ。クレーム対応はできるようになってほしいが、今のまま突き進んだほうが面白いだろう。
「私には無理だなあ。クレームは丸く収めて、ほかのお客さんが迷惑を被らないようにしたいんだよね。そのための割引券だから。クレーマーに得をさせたいわけじゃないんだよ」
小野寺くんが切った割引券は、縁が曲がって歪な形をしている。印刷された線に沿っては切らないぞ、という意地を感じる。
「一部の人はもう仕方ないよ。大多数の人が楽しく過ごせるように、環境を整えるのが私の仕事なんだと思う」
鼻に詰めたティッシュのせいで、情けなさに拍車がかかっている気がする。これが私だ。日本刀にはなれない。なれなかった。
小野寺くんは何か考えるように黙っている。
「どうかした?」
「そろそろエンドロールなんで、ドア開けてきます」
袖を捲って腕時計を確認すると、小野寺くんは立ち上がった。歪な割引券を数枚、ポケットに突っ込んで、劇場を閉め切る重いドアのほうに歩いて行った。
「おい」
劇場の出入り口から低い声がした。例の金髪男だ。信じられない、まだいたのか。小柄な女は斜め後ろにいる。
小野寺くんはドアのストッパーを足で押し込み、男に向き直った。
「最後まで見たけどよ、全然面白くねえよ」
心臓が跳ねた。それを言うために戻って映画を見たのか。大変だ、小野寺くんが殴る前に収めないと。
劇場から出て行く客の間を縫って、私は小野寺くんのもとへ走った。割引券を二枚、手に持って。
「最後まで見たから文句言っていいんだよな。映画クソつまんなかったぞ。金返せ、金」
小野寺くんは両手を固く握って、小刻みに震えている。自分よりも背が高くがっしりした相手を、まばたきもせずに睨み返している。
ここは謝罪のプロに任せて、の意味を込めて小野寺くんの肩に手を置こうとした刹那。私の右手は空振りした。
「申し訳ございませんでした」
日本刀が直角に折れた。私の知らない小野寺くんがいた。なんだ、それは。ぶん殴るんじゃなかったのか。いや、タックルの体勢か? レスリングの試合でも始まるのか?
私の困惑など見えていない小野寺くんは、もとの直立姿勢へと静かに戻った。
「返金はできませんが、お詫びに次回から使える割引券を差し上げます」
金髪男は、おうとか、ああとか、活字にしにくい音で返事をした。女は相変わらず無言だ。
小野寺くんがポケットから割引券を出す。
同時に、私の脳の血管が切れた。スイッチが入るのを感じた。
私より背が高い小野寺くんより背が高い金髪男の顎を砕くつもりで、右手のグーを突き上げる。男は後ろによろめいて身体を反らせる。私は男に向かって走る。わずか三歩の距離が遠い。ただの絨毯に足を取られそうになる。
体勢を崩した男の身体に飛び込んだ。彼を巻き込んで重力に身を委ねる間、劇場の赤い絨毯が見えた。血の色をしている。私の血だ。諦めた者の血。
金髪男ともつれたまま絨毯に倒れる。彼を下敷きにしたとはいえ、胸への衝撃は大きく、ベキ、と肋骨の割れる音がした。
「小野寺くんに、謝らせるな!」
刺されたように肺が痛んだ。私はやめない。右手のグーを床に叩きつけるように、男を殴った。顔面には届かず、喉仏を殴る。殴る。殴る。拳の中の割引券が汗を吸う。
支配人、支配人、と小野寺くんの裏返った声が聞こえる。私の両肩を掴み、男から剥がそうとしている。
「君が殴るんじゃなかったのか!」
小野寺くんは変わらなくていい。まっすぐ生きて、凄い監督になってくれ。
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