冷たさは何かの始まり

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冷たさは何かの始まり

 強い理由があるのかもしれない。 あるいは、そんなのものは存在しないのかもしれない。 もしくは、微小なものの積み重なりから生まれた、一つの行動かもしれない。  中に着てるキャミソールが汗で湿っていた。 暑いところから寒いところに出て、急激な気温の変化に、居心地の悪さを感じる。 警備室に行くまでの廊下の温度は低く、夏なら涼しいけれど、それ以外の季節は寒すぎるくらいだ。 特に冬の今は、自然に早歩きになるほど寒い。 自分の足音が異常に響くこの道のりは約十五秒。 「お疲れ様です」 時間と名前を記入し、鍵を返そうとしても誰も来ない。 もう一度大きめの声を出す。 「お疲れ様です」 返事がない。 人の気配すらない気がした。 少ししてからドアをノックし中に入ってみる。 「すみません、鍵を返しに来たんですけど」 中を見るのは初めてだったから、想像以上の広さに驚いた。 その想像以上の広さの奥の方から、こっちに向かってくる人がいる。 いつもいるような年配の人じゃない。 若くて、初めて見る顔だ。  幼く鋭い印象の瞳が、何かを強く求めている気がした。 「あの、鍵...」 鍵を渡そうと手を伸ばしたが、受け取ろうとしない。 その人は私に言った。 「キスしてくれませんか」 その言葉は嘘のように響くのに、確実に私の心の何かに触れた。 「したらどうなるの?」  自分の声の抑揚のなさに驚く。 その人は少し考えてから、こう答えた。 「幸せになる」 沈黙の中では暖房の稼働音だけがやけに際立つ。 そこから少しずつ鼓動が速くなり、目の前の人を強く意識した。 そして、この部屋は温かいと感じる。 「幸せになりたい」 私はそれだけ言うと、その人に近づき、背伸びしてキスをした。 私の唇に比べ彼の唇は冷たく、先ほど感じた温かさを彼に奪われているような気がした。 唇を離した私は、ただこちらを見つめる彼から目を逸らし、彼の手に鍵を握らせる。 彼は手も冷たい。 その温度を体感し、自分だけが卑しい人間に思えてその場から走り去った。  廊下を抜け、そのまま息が切れるまで走り続けた。 自分の事がよく分からないのに、どこか分かってしまったような不思議な感覚に陥っていく。 再び体温が上がっていくのを感じ、限界がきたところで私はついに立ち止まった。  微小なものの積み重ねは、予想外の行動を巻き起こす。 全力で走った私は、恥ずかしさや愚かさ、色々な感情を感じながらも、その瞬間はただ、呼吸を整える事を最優先に考えていた。 こんなに全力で走ったのは、小学校低学年以来のはずだから、約二十年振り。  彼の瞳をはっきりと思い出したのは、呼吸が整い、体勢を前屈みから普通の姿勢に戻せた時。 息苦しさが消えた次は、さっきの出来事の重大さが押し寄せて、結局また体勢を崩し、周りに人がいないのを確認すると 「あー」 と、ため息が混ざった後悔を、小さめの声で叫んだ。 まだ人目を気にするほどの余裕があるはずなのに、あんな選択を一瞬にして下した。 だけど、私の直感は当たるから。 彼の瞳は確かに訴えた。 幸せになれると。
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