11人が本棚に入れています
本棚に追加
幼くも鋭い瞳
「お誕生日おめでとうございます!」
明るく、キャピキャピしたその声で私の意識は、昨日のあの出来事から今現在に戻った。
「先輩、今日お誕生日ですよね?」
「そうだけど、なんで知ってるの?」
「前に一度だけご飯食べに行った時、言ってたじゃないですか~」
「そうだったっけ?」
「そうですよ~。今日はパーティーでもするんですか?」
濁りのないその瞳に私はいつも引け目を感じる。
「友達とご飯食べに行くだけで、パーティーってほどではないよ」
「そうなんですか。とにかくおめでとうございます!」
「ありがとう」
彼女、鈴野さんはどうして私に優しいのだろうか。
あの日がきっかけだろうか。
この職場に入ったのは私よりも五年ほど後で、彼女も私と同様にアルバイトだ。
高校ニ年で入って来た彼女は、まだまだ子供だった。
社会に一生懸命適用しようとする、大人になれない子供。
店長とアルバイトだけで回しているこの店でアルバイト全員を「先輩」と呼んだ彼女は早々に、愛想の全くない店長に叱られた。
さらに、彼女は仕事ができないというレッテルが貼られ、長く勤めているバイト数名が店長に文句を言い、店長はその事も叱った。
店長本人は大して彼女の仕事を見ていないのに。
確かに彼女には不器用な所がある。
でも彼女は仕事に対してとても真剣で、丁寧で、人の気持ちをしっかり考えていた。
自分の思い通りにいかないからと苛立ちを露わにする人達に、私は悲しい気持ちになった。
こんな人達ともう働きたくない。
たかがバイトだ、辞めようと、やけに強気になった私の視界に彼女が映る。
そして、更衣室で唇を噛み締めながら着替える彼女に、私は提案するのだった。
「鈴野さん。他の人がいないところでは、先輩って呼んでくれませんか?」
勢いよくこっちを見た彼女は、
「いいんですか?」
と聞いた。
それは、私の人生で初めての提案だったように思う。
自らの意思での提案。
誰かを救いたいと思い放った言葉。
学生時代も「先輩」と呼ばれた事のなかった私の憧れの響き。
あの日が初めての心からの提案だとしたら、昨日の出来事は初めて心から受け入れた提案だったと感じる。
いつも人の提案に流され、なんとなく受け入れてきた私の望んだ行動。
後悔はしているけれど、昨日のあの瞬間だけは確かに望んでいた。
「幸せになる」と言った彼の言葉に引っ張られた。
もしかしたら、後悔はさほどしていないのかもしれない。
後悔しているフリをしないと、人としてダメな気がしただけかもしれない。
昨日は家に帰ってからすぐに、ビールを飲んだ。
違う仕事を探さなくちゃと思った。
恥ずかしくてもう職場に行けない、あの行動が噂になりクビになるかもしれない...
防犯カメラもあるだろうから、その動画が流出して...など、考えすぎて気が滅入りそうだった。
結局、普段お酒を飲まない私は急激な睡魔により、ソファで朝まで眠る事に。
誕生日だと気付いた時には虚しい気持ちになった。
起きて、もう仕事には行かない!と鏡の前で決意するが、今になって変化を起こすのが怖く、いつも通り支度を始めた。
こうして私はいつも通りに出勤した。
そして、いつものように鍵を返しに行かなければならない。
学生でもなく、家族と住んでいるわけでもなく、帰りを急がなくて良い。
そして、この店に勤めているのが長いのは私しかいないから、店長がいない日は私が担当だ。
退勤時間が近づくにつれて、気分が重くなる。
だけど、昨日の夜に出番だった彼は、おそらく今日はいないだろう。
寒い廊下。
いる確率の方が低くくても、心の準備はしておいた。
私は昨日のキスを思い出す。
少し、いや、かなり。
鼓動が速くなるのが分かる。
大丈夫、彼がいる訳がない。
「お疲れ様です」
いつもの年配の人が言った。
私も安心して、
「お疲れ様です」
と言う。
一応彼がいないかを、見える範囲で確認したけれどいないようだった。
だけどなんだか違和感がある。
この人とは何度も顔を合わせているけれど、ここまでニコニコしているのを見たことがない。
もしや、バレているのではないか。
なんて破廉恥な女だと思いながら、笑っているのではないか。
私は記入し、鍵を渡すとそそくさと帰ろうとする。
「お先に失礼します」
「あー待って待って」
その一声に私は急に汗をかく。
「はい…」
何を言われるかはもう分かっていた。
昨日の私の人生最大の決断から、人生最大の危機が訪れる。
「お誕生日、おめでとう」
「えっ」
予想外の言葉に驚く。
「はい、プレゼント」
手のひらサイズの赤いリボンが結ばれた、平たい包みを受け取る。
「鈴野さんから今日が誕生日だって聞いてね。サプライズで渡してって頼まれて」
「ありがとうございます」
「おめでとう。残り少ないけど、素敵な誕生日を。お疲れ様」
「お疲れ様でした」
私は廊下を歩きながらそのプレゼントが何かを悟った。
チョコレートだ。
何ヶ月か前に鈴野さんから、私の好物を聞かれたのを思い出す。
その時。
「プレゼントですか?」
その声は初めて聞くものではなかった。
心臓がズキッとなったのが分かる。
気が緩んでいたせいで、さっきまでの心の準備は意味のないものになっていた。
誕生日を祝ってもらい、幸せを感じていたのに思い出してしまった。
顔を上げるとやっぱりそこには、冷たい唇の彼がいた。
私服だったから、一瞬違う人かと思ったけれど、やっぱり彼だった。
何の気負いもないようにそこに立つ姿は、ある意味私を安心させた。
昨日の事をなかった事にしてくれるのではないかと。
「もしかして、誕生日ですか?」
ポケットに手を突っ込み、寒さから肩を少し上げている彼は私の返事を待つ。
「一つ聞いていいですか?」
私は私なりに勇気を出して彼に聞いた。
そしてまた、自分の声の抑揚のなさに驚く。
「はい。何個でも聞いて下さい」
「歳、いくつ?」
彼が一瞬眉をひそめる。
「それって重要ですか?」
「私はあなたに何度かタメ口を使ってしまったから、私の想像してる年齢と違ったら申し訳なくて」
「なるほど。それはそこそこ重要ですね」
「何歳?」
「二十二です。想像通りでしたか?」
やっぱり歳下だった。
五つ下だ。
私は今日、二十七歳になった。
「想像よりも少し若かった」
「それで、そのプレゼントは?誕生日ですか?」
「うん」
「何か食べに行きませんか?僕がご馳走します」
返事を考えようと思うのに、私はどうしても彼の瞳を見てしまう。
彼の瞳が好きだ。
幼くも鋭い瞳。
でも、だからキスした訳ではない。
あくまで微小なものの積み重なり。
多分、後悔や欲望や切なさや期待が少しずつ積み重なった結果。
「じゃあ、ご馳走になります」
鈴野さんには見栄を張って、今日予定があると言ったけれど、彼には寂しい女だと思われても良かった。
誕生日の夜に予定の入っていない女。
もはや、初対面の人とキスするような女と思われているから。
彼の提案にあっさりと乗った私は、昨日から少し変だ。
二人共キスについて言及しなかった。
私はただ恥ずかしいからだったけれど、彼はなぜ何も言わないのか分からなくて、それを知りたかった。
「どこ行くの?」
行き先を言わずに進む彼に、私は問いかける。
「美味しいお店です」
「着いてから、私の嫌いな食べ物だって分かったらどうするの?」
先を行く彼は振り返って、
「嫌いな食べ物あるんですか?」
とさっきよりもハスキーな気がする声で聞いた。
「ないけど...」
私は彼に追いついてから答えた。
彼は私を見つめながら、
「やっぱり。そう思った」
と微笑み、また歩き出す。
さっきから私ばかりが質問していて、なんだかみっともない。
それに私は自分が年上であると分かった事で、弱みを握られた気もしたし、逆に大人らしく振る舞うべきだという緊張感もあった。
そのくせ彼に話し掛けたくて、うずうずしている。
「警備の仕事、最近始めたの?」
「はい。一ヶ月経ちました」
「そうなんだ。それなのに、昨日初めて会ったんだね」
話し掛けたい理由はいくつかあると予想される。
でも答えを探すのはやめた。
「名前は?」
私はまた質問をする。
「じん」
ニ文字の響きがなんだか心地良かった。
彼に似合う名前だ。
「やえ」
彼は私のニ文字の名前を呼ぶ。
「え、なんで?」
「やえさん、でしょ?」
「なんで知ってるの?」
私はこの時何かを期待した。
何かは分からないけれど、とにかく期待していた。
無意識に、自然に、心から。
「鍵を返しに来た時に、記入してたので見ました」
「あ、そっか。名前書くもんね」
「やえさんって呼んでもいいですか?」
断る理由は特になかった。
苗字で呼ばれたいわけでもないし、先輩と呼ばれるような関係でもない。
「うん。私は何て呼んだらいい?」
「じん。それだけでいいよ」
「分かった」
彼は両腕を後ろに組み、歩いていた。
遠くを見たり、空を見上げたりもした。
時々する目を細める表情は、二十二歳と思えない深みを感じさせる。
彼が案内した、オレンジの灯りが素敵なイタリアンレストランで、私は二十七歳の誕生日を祝ってもらった。
何を話したかと聞かれれば、好きな食べ物とか休みの日の過ごし方とか、深いところには触れないような分かりやすい会話だったと答えるしかない。
彼が私に話しかけるたび、彼の唇が動くたび、私は昨日の出来事を思い出し、彼の言った事は嘘ではなかったと思う。
私は今、幸せだ。
「やえさん?」
どうしよう。
私は本当に今、幸せで、根拠のない自信があって、明日に少し期待している。
「やえさん、大丈夫ですか?」
彼がさっきより目を大きくして、私の様子を伺っているから、私は彼に問いかけた。
「じん。なんでキスして欲しかったの?」
私は彼の名前を呼びたくて、彼とのキスについて知りたくて、現実感のない中そんな事を聞いた。
「それは...言ったじゃないですか。幸せになるからって」
きっとこれ以上聞いても彼は答えないだろうと思い私は諦めた。
「私の直感はよく当たるの。やっぱり正しかった」
「え?」
彼は少し不安そうな顔をする。
「確かに、幸せになったよ」
「本当ですか?」
彼はまだ不安そうな顔をしている。
「うん、本当。じんがいなかったら、誕生日を一人で過ごしてたから」
「そうですか。でも、ごめんなさい」
キスについて謝っているようだった。
それなら謝らないでほしかった。
私の選択でもあるんだから。
「ううん...こっちこそ、なんかごめんね」
彼は何も言わず首を横に振り、ただ優しく微笑んだ。
本当に優しい笑顔だった。
私に温度を感じさせる笑顔。
だって彼は、昨日触れた時にはあんなに冷たかったから。
彼の手は、唇は、今は冷たくないだろうか。
温かい場所で、温かく美味しい料理を食べたから、今は冷たくないよね?
冷たさから逃れたとしても、彼は私とのキスで幸せになったとは限らない。
その事が一番悲しかった。
「やえさん、改めてお誕生日おめでとうございます」
帰り際に彼はそう言った。
さっきまではあんなに嬉しかった彼との会話も、今は切ないものにしか感じない。
どうして簡単に気持ちが舞い上がってしまったのだろう。
「本当にありがとう。ご馳走様でした。おやすみなさい」
私は抑揚のない声で伝え、彼に背を向けた。
でも私は知っていた。
抑揚のない声は、私の期待の現れで、その期待を隠す為のものだという事を。
「やえさん」
少し進んでから聞こえた彼の声に、私は振り返った。
「おやすみなさい。気をつけてくださいね」
彼は、笑顔で手を振った。
ずるい。
彼は私を自然に笑顔にする。
そして、幸せにする。
だけど私は知らなかった。
彼の笑顔とその動作は、彼なりの期待の現れだと言う事を。
助けてほしいという彼の願いである事を。
私は彼の期待の対象になっていた。
そんな事にも気付かずに、私は私で、彼に期待していた。
最初のコメントを投稿しよう!