一番好きな事を言わない

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一番好きな事を言わない

 彼を助けたいとは言ったものの、私にできるのは彼のそばにいる事くらいだった。 彼は私を好きだと言った。 でも私には言えなかった。 傷だらけの彼を見た時に何かが変わった気がしていたから。 私に救いを求めた彼の、ただ幼いだけの瞳に戸惑い、可哀想だと同情する心のせいでもあった。 それこそ、言葉にできない夢に似ている。 あまりにも大切にしたくて、誰にも邪魔されたくなくて、独り占めしたくて、ただ見つめていたくて。 そして、怖くて。  彼は、私に夢のハードルを下げる話をしてくれたけど、この想いには不言実行なんて通用しないと分かっていた。 伝えて初めて実行されるのだから。  私は仕事以外に誰かと一緒にいる時間を、久しぶりに過ごしていた。 交際経験は一度だけ。 恋人はしばらくいない。 学生時代の友達はいない訳ではないけれど、しょっちゅう会うような人はいなかった。 今となっては、連絡先を知っているだけの人というのが正しいのかもしれない。  仲の良い友達に、よく嘘をついていた。 例えば、好きな音楽の話になったりすると、私はニ、三番目に好きなバンド名を言ったりした。 実際にそのバンドも好きだから嘘ではないのだけれど、私の一番ではなかった。 言えないというのが私としてはしっくりくる。 ここでも、言葉にできない夢の話になってしまうけれど、私の一番大切なものを人に知られるというのがまず考えらない。 これほどに大切な想いをどうして共有しなくてはならないのか。 そんな気持ちが幼い頃からあった。 「じん」 私は、彼の名前を呼ぶ度に納得する。 「何?」 彼の敬語が少しずつ減ってきた頃。 私は夕方からの勤務で彼は休み、場所は水族館だった。 「見て、なんか面白いよ」 私は水槽で変な動き方をする魚を指差した。 「本当だ」 彼は私が指差した魚を見て、微笑んでいた。 その横顔を見て私は安心感を得る。  私達は、目の前の出来事に共感し、共鳴した。 だけど、二人の共通点をほとんど見つけられずにいた。 会う度、話す度、彼の事を知っていく度、それは明確に私の前に現れる。 これを共通点と括って良いのか分からないけれど、仕事以外で誰かと一緒にいる事がほとんどないという点だけは同じだった。 私は実家を出てから、彼はお兄さんから逃れてこの街に来てから。    そもそも私は彼に対してあまり、共感を求めていなかったのかもしれない。 目の前の何気ない出来事に対しては、共感して欲しい。 桜が綺麗だ、美味しそうな食べ物だ、可愛い犬だ、そんな事には。 でも、私という人間の本質や過去、理想には共感を求めない。 これを言葉にするのは非常に難しい。 つまり、彼には彼のままでいてほしい。  私は彼を愛してるのに。 彼の涙が私の最初の気持ちを変えてしまった。 今、水槽の前で、水色よりも少し深い青に照らされた彼の瞳には、出会った日の鋭さはなかった。 鋭さは、お兄さんへの反抗心や不言実行の対価として得たもの。 大人になった証拠だった。 彼の過程を壊してしまったのではないかと不安で仕方ない。 お兄さんに従うしかなかった幼い頃の、逃げようとも、反抗しようともしていなかった頃の彼に戻ってしまうのではないかと、不安だった。 あまりにも幼く、優しい瞳だったから。 弱さを見せた事で、簡単に崩れてしまいそうなほど、彼は力を失ったように見えた。 「やえさん、こっちです。見て、綺麗だよ」 共感を求める彼に、私も応える。 「本当だ、綺麗。色がすごいね」 「うん」 私は彼を愛してる。 初めて見た瞳と違う今の瞳も、本当は愛してる。 ただ、変化が怖いのだ。 「じん」 「ん?」 水槽の中のクラゲを見ていた彼は、私がなかなか次の言葉を言わないから、ようやくこっちを見た。 「何?」 全身に血が巡り、程よく切なく、初めて出会った夜のように、思考よりも衝動。 そんな流れ。 その流れはよく私に押し寄せた。 私がこれまで経験してきた事、出来なかった事、知った感情、知らない感情、出会った人、出会えなかった人、交わした会話、伝えられなかった事。 それらから生まれた、微小なものの積み重なり。 でもやっぱり、私にはまだ言えなかった。 「あー、えっと。そろそろお腹空かない?」 「空いた。いつ言おうかなって思ってましたよ」 恥ずかしそうに笑う彼。 こんな何気ない共感。 「何食べたい?」 「えーどうしよう」  ふと、昼食のメニューに悩む彼の手を見た。 今は冷たくないだろうか。 キスしたあの時みたいに冷たくないなら、それでいい。 「明日も会える?」 水族館の帰り、私の出勤時間に合わせて職場まで送ってくれた彼が言った。 「うん。会えるよ」 「じゃあ、連絡します。いってらっしゃい」 「いってきます。ゆっくり休んでね」 「はい」 私は彼に背を向け、入口の方に向かっていった。 すると、扉から白いコートを着た綺麗な女性が出てきた。 同性でも自然に目が行ってしまうロングヘアの美しい女性。 その人は私とすれ違う直前、誰かを見つけて声を出した。 「じん?」 その、私以外から発せられた二文字の名前。 私は胸に今まで感じたことのない痛みを覚えた。 「沙友理さん」 三文字の名前を呼んだのは、私の知ってる声。 私は自然に振り返っていた。 彼の今の表情を知りたくて。  その表情から、彼がとにかく驚いている事が分かる。 女性は彼の方に駆け寄り、満面の笑みを浮かべた。 女性の笑顔に気を取られてしまい、次に彼の顔を見た私は、自分の秘密がバレた時のような、冷や汗をかく感覚に陥る。  彼の目に、鋭さが戻った。 幼さの中の鋭さ。  私は緊張感の中にいた。 一瞬にして、彼の冷たい唇と、「キスしてくれませんか」と言ったあの日の声が蘇る。    彼の瞳には今、私ではない一人の女性が映る。 嫉妬するほどの恋だと気付いていた。 彼が「やえさん、好きです」と言ってくれたあの時に、私も同じ想いだと答えるべきだったと、彼とその女性を見て後悔までした。 「じん。探してたよ。元気だった?」 「兄貴から聞いたんですか?ここにいるって」 「うん」 返事をしながら、その女性は私の視線に気付き、こっちを見た。 それにつられて彼もこっちを見る。 私は何か言えるわけでもなく、ただ彼を見つめた。 彼の瞳の変化を見逃さないようにして。 「大丈夫?」 「何か辛いことを思い出したんじゃないの?」 「そっちに行こうか?」 心の中では沢山の言葉を彼に投げかけられる。 それを汲み取ったかのように彼は小さく2回頷いた。 「大丈夫」 私には彼がそう言ってるとしか思えなかった。 結局私はただ、彼が好きなんだ。 鋭さのある瞳でキスをしても、幼いだけの瞳で泣きつかれても。 出会った瞬間の気持ちも、彼の弱さを知ってからの感情も。  雪が静かに降り始めた。 私は彼らに背を向け、寂しいような悔しいような気持ちのまま立ち去った。
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