その瞳が好きだった

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その瞳が好きだった

「先輩」 仕事終わり、更衣室で鈴野さんが私を呼んだ。 「何?」 「あ、いいえ。先輩しばらく連勤だなと思って」 私は彼とあの綺麗な女性の事ばかり考えていた。 確かに私達はまだ知り合って日も浅いし、お互いの知っている事の方が少ない。 それに、キスはしたけれど、私は彼に好きだと伝えていない。 「そうなの。でもその後、三連休だから」 「何するんですか?」 「まだ決めてない」 「そうですか。私も最近は寒いし、家の中が多いです」 鈴野さんは寒さを、顔と上げた肩で表現した後で、髪型を整え始めた。 さらに、鏡を見ながら淡いピンク色のグロスを塗る。 「鈴野さん」 「はい」 私の方を見たその何気ない笑顔が、私にはとても眩しくて、素敵で、私は意を決して聞いてみる事にした。 人生で初めての質問。 クラスの女子同士でその話題になるのをなぜか嫌っていた私でも、今はその質問を必要としている。 「好きな人いる?」 「え、突然ですね。まあ、いますよ。好きな人...彼氏、います」 鈴野さんも私からそんな質問をされるのが意外だったみたいで、それ以上の言葉を見つけられずにいるようだった。 「そっか。ごめん、聞いてみたくなって」 「ちょっと意外でした。でも先輩と距離が縮まったみたいで、嬉しいです。じゃあ、彼氏に会いに行ってきます。お疲れ様でした」 「お疲れ様」 鈴野さんのほのかに甘い香りが、私に恋というものを思い出させる。 そして彼、じんに感じている感情は私が知っていた恋とは、確実に違うものだと思い知らされる。  警備室で鍵を返し、寒い廊下を歩いた。 仕事が終わると欲望が少し薄れる。 一日を乗り切り、明日までは私の自由な時間。 だから気も緩み、この瞬間をただ楽に生きたくなる。 朝になれば、この日常を変えたいという欲望、どうにかここから逃げ出したいというネガティブな気持ちが襲ってくるのに。 結局、未来の為に努力する時間を逃し、今夜もまた薄れた欲望の中、楽をしようとしていた。 「やえさん」 気のせいだと思った。 気のせいだと思いたかったのかもしれない。 今彼に会ってしまうと、私の感情がどう動くか自分でも判断できない気がしたから。 薄れたはずの欲望と、彼とあの女性の関係に対する不安で。 まだ日も浅い私達の仲なのに、彼の瞳や彼の声は私を変える。 「やえさん」 声のする方を向くと、やっぱり彼はそこにいた。 彼は微笑んでいる。 私も微笑もうとしたけれど、そこで気付く。 彼の瞳に鋭さが残ったままだと。 あの女性がきっかけとなって、彼の瞳に鋭さが戻っている。 幼さの中の微かな。 私が好きになってしまった瞳。 「やえさん?」 何も言わない私に彼が問いかける。 私は必死に笑顔を作った。 「どうしたの?来てくれたの?」 「はい。やえさんが心配してると思ったから。僕の勘違いですかね?」 私は自分を知らなかっただけなのか、彼に出会ったからこうなったのか。 欲望の薄まった夜なのに、彼とキスしたあの夜のように、私の期待の意味合いの抑揚のない声が出そうだった。 でも私は、その期待を隠さずに思いのままを声にする。 「じん。私、じんの事、好き」 彼を他の人に奪われたくない、その一心だったのかもしれない。 欲望でしかなかった。 「ありがとう。嬉しい」 私は彼の様子を伺う。 優しく微笑んではいたけれど、彼はその時、私を好きだと言わなかった。 その時だけ。 いつも伝えてくれていたのに。  その後、彼は今日の出来事を話すわけでもなく、私を家まで送ってくれて、そのまま帰った。 私はあの女性との関係や、過去の事、今日の出来事を聞きたくなかっただけなのかもしれない。 彼は私の思いを汲み取ったかのように、静かに私の隣を歩くだけだった。  家の前に着いた時、彼は言った。 「次の一緒の休み、まだ行ったことのないような場所に行きませんか?」 寒さのせいか、彼の頬は少しだけ赤くなっていた。 「うん。どこか考えておく。じんも考えておいてね」 「うん。おやすみなさい」 「おやすみ」 彼は何度か振り返り、手を振った。 私は彼が見えなくなるまで、その後ろ姿を眺めた。 どうしても、彼を信じてしまう。 どうしても、彼を好きになってしまう。 その瞳が好きだった。  その日の夜はいつもと違う感情が押し寄せた。 特別な夜のはずだった。 彼に気持ちを伝えるという、私の夢は叶ったはずなのに、なぜかしっくりこない気持ちもある。  普段は家にいる間、テレビを点けている時間が多いけれど、できるだけ静かな場所にいたくて、ただボーッと過ごした。  怪我をした彼をここに連れてきて、彼の涙を見た日が懐かしい。 少ししか経っていないのに、彼の幼いだけの瞳の安心感が 恋しかった。 私が恋した、鋭さを含む瞳は、私に愛のような感情だけじゃなく、緊張感や薄暗闇の中にいるようなもどかしさを与えた。    私は初めての彼氏が初恋の相手だった。 夏也というその人は、夏に生まれながらも、夏の暑さを嫌う、私とよく似た人だった。 夏也、と呼び捨てにはしていたけれど、年齢的には3つ上で、小さい頃からの仲だったから、年上という意識もなくそうしていた。 好きな映画も、小説も、音楽も、好きな歌詞の部分まで一緒。 冬が好きなのも、傷付く言葉の種類や、苦手な事も似ていた。 夏也は唯一、自分の一番好きなものを嘘偽りなく話せる相手で、とても気楽に隣にいる事が出来た。 これほど、似ているのなら、私はこの先もずっと夏也と一緒にいるのだろう、と感じてしまっていた程だ。  付き合いだしたのは私が中学2年で、夏也が高校2年の時。  付き合うとは言っても、以前と特別変わった事のない、友達のような状態だった。 いつも一緒にいる私と夏也に、夏也の友達が聞いた。 私の前で。 「もしかして、ニ人って付き合ってるの?」 私は何も期待していなかった。 まさか、夏也にそんな気持ちがあるとは思わなかったから。 夏也は言った。 「俺は、好きだけど…やえは?」 私は顔が赤くなるのを感じながらも、懸命に自分の気持ちを伝えようした。 「私も…」 その友達は凄く良い人だったから、ただ 「おめでとう。キューピットになれたかな?」 と優しく私に言うだけだった。 友達と別れた後、夏也は 「ごめんね、ニ人の時に言うべき事なのに」 と心から申し訳無さそうに謝った。  それからも友達であった頃の感じから抜け出せずに、過ごす事になる。 ただ一度だけ、私は夏也とキスをした。 でも、キスをした時、私は別れを予感していた。 私のファーストキスは切ないものだった。  夏也は幼い頃から絵が上手で、絵心がない私も、心のどこかでその凄さに気付いていた。  そう、夏也と私の似ていないところは、絵が得意かそうではないか、くらいだったと思う。 見た目はさすがにそっくりではないけれど、小さい頃なんかは特に、お互いの両親や近所の人が「いっつも一緒にいるからか、顔も似てきたね」とか「兄妹みたい」「笑った顔が似てるね」と言われる事があった。  夏也は高校を卒業すると、美術の大学に通いだした。 特待生として入学し、一年生の頃から入賞するほどだった。 そのあたりから、私の心は落ち着きなく騒ぎ出した。 似ていて、同じだから良かったはずなのに、唯一似ていない部分があまりにも目立ち過ぎていた。 夏也は少しどころではなく、本当に凄い人だった。 世界的なレベルの人だったのだ。 大学ニ年の時、フランスの有名な展覧会に夏也の絵が展覧された。 夏也の絵が評価されるスピードから、夏也の天才ぶりが伺える。  そんな偉業を成し遂げても、夏也は変わらなかった。 私と話す内容も、私に笑いかける顔も。 だけど私は、彼と唯一違うその部分が気になって仕方がなかった。 絵が上手い点ではなくて、夏也が凄い才能の持ち主だという事。 共感できない気持ちがある事。 一番しっくりくるのは、悔しいという感情だろうか。 素直に応援できないような気持ちが、私の本音だった。  私は夏也に共感だけを求めていた。 だから私の夏也に対する感情は、新たな方へと向かっていった。  夏也は大学ニ年からフランスに留学する事になる。 出発する前日、私に優しくキスをした。 ファーストキス。 そして、言った。 「好きだよ」 あまりにも優しい瞳だった。 私は夏也を強く抱きしめたかったけれど、そうしてしまうと、何かが鈍ってしまい、いつか後悔しそうだったから出来なかった。  その後、夏也が一時帰国した際、私は別れを告げようと決める。 離れた場所にいる夏也の活躍を知る度、素直に喜べない自分が嫌だった。  夏也が有名になるのが嫌だった。  夏也が帰ってきた日。 少しだけ大人っぽくなった夏也は、私にこう言った。 真剣に。 「やえ。将来、フランスで一緒に暮らそうよ。やえと見たいものがいっぱいある」 一緒に行きたかったし、そんな二人の姿を何度も想像した。 夏也とずっと一緒にいるのは私の夢でもあった。 それなのに、私はそんな優しい人を傷付けた。 もう隣にいる自信がない。 初めて夏也についた嘘でもあった。 違いを見つけていなければ、別れたくなんかない。 「私達、別れよう」  十八歳の大きな決断だった。   後になれば若さのせいとでも、なんとでも言えるけれど、 その当時、それ以外の選択はないように思えた。  夏也の優しい瞳、じんの鋭さを含む瞳。 諦めた夢と今、叶えたい夢。 この二つは星座のようには結びつける事ができない。 それらを繋げる事は非常に危険な事だった。 私はじんに、私と似る事を望まなかった。
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