山の主

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山の主

 決断したら、行動は早いのが若者の長所だが、やはり混乱していたのだろう。  気づかなかった。  背後に近づいた者に、声を掛けられるその時まで。 「山を燃やすのは、勘弁してほしいんだけど」  文字通り、飛び上がった。  心の臓が、口から飛び出そうなほどに驚いたが、すぐに体勢を戻して身構え、声の主を見た。  そこには、すらりとした人影が立っていた。  自分と同じくらいの体格と背丈の、古着を着込んだその人物は、身構えたまま目を見開いた若者に近づいて、溜息を吐いた。 「血が沢山流れた匂いがしたから、もしやと思って戻ってみたら……よく、ここまで逃げて来れたねえ」 「……狐? あんたが、この山の主、なのか?」 「主ってほど、大仰な物じゃないけど、ここを住処にしている狐だよ」  答えながら怪我の具合を見て、腕に巻いた手拭いを巻き直してくれる狐から、その背後に視線を移すと、そこにもう一人立ち尽くしていた。  こちらはまだ幼い、小柄な男の童だ。 「あれは、あんたの生んだ子供じゃないな?」  言った途端に、痛みが腕から脳天に響いた。 「あ、すまない」 「ち、違うなら、口でそう言ってくれっ。謝るから」  手拭いを力一杯締め付けられて、そう訴えるセイに謝ってから、狐は尋ねた。 「どうしてそう思った?」 「いや、一緒に住んでいるなら、そうなのかと思っただけだ。義理の母子かなと。違ったなら、謝る」 「謝る必要はないよ。弟みたいなものだってだけで、違いはない。でも、よく分かったね」 「何が?」  首を傾げた若者に、狐は辛抱強く尋ねた。 「だから、私が、女だって」 「………女じゃなかったのか?」 「女だけど……この見た目で、そう言われたの初めてだよ」  手を広げて、男物の古着を身につけた体を見せると、セイは更に首を傾げる。 「そうなのか。分からないものなのか? 見ただけでは性別も?」 「……男の体で、男の身なりをしてるのに、分かるのはおかしくないかい?」  狐は眉を寄せたが、セイの方は、それ以上この件で何を言えばいいのか分からず、黙ってされるに任せた。  一連の動きを見守り、無感情に切り出す。 「火が欲しいんだが、どこか、燃やせる場所はないか?」 「だから、山を焼かれるのは、困るって言っただろ」 「……よく分かったな、そう考えてたことを」  感心した言葉に、狐は溜息を吐いて答えた。 「分かったも何も、一人でぶつぶつ言ってただろ」  気づかずに頭で考えていたことを、口走っていたらしい。  つくづく不調だと、ため息を吐くセイに、狐は言った。 「うちにおいで。火種位は貸してあげるよ」 「いや、それは……」 「獣の住処に行くのは、嫌かな?」  躊躇った若者に、狐は優しく尋ねながらも、相手の左腕を取っている。 「……いいのか? 人間を、自分の住処に入れても?」  取り繕いが通じないと察し、セイが眉を寄せて問い返すと、それにも優しい笑顔が返った。 「人間? 本当に? 獣の妖しを二人も連れた人たちが、人間の類に入るのか、怪しいと思うけど」 「……」  糠に釘。  何故か、その言葉が頭に浮かんだ。  普通に接していては、こちらが流されてしまう。  直感は鋭い方ではないセイだが、経験上の何かが頭の中でそう判断した。 「連れが妖しだからといって、安心してもいいものなのか? もしかしたら、何かで縛り付けて、道連れにしているのかもしれないだろうに」  やんわりと微笑んで返すと、狐の背後にいた子供が顔を引き攣らせた。  後ずさる子供を尻目に、狐は目を丸くする。  恐ろしく綺麗な笑顔だが、目は感情のないままだ。  勘の鈍い者なら、思わず見惚れて言われたことにも、素直に頷いてしまうかもしれない。  勘の鋭い者なら、後ろの子供のように逃げ腰になるような、威圧感がある。  色白の顔に、小動物を思わせる、黒々とした瞳が目立つ。  感情が窺えないのにどうしてこうも、愛らしい目に見えるのか、その目を覗き込んでいた狐が、その目が黒目との境が、分からぬほどに黒いのに気づき、突然手を打った。 「そうか、目が違う」 「……何の話だ?」  何故か、色々な場面でよく効く方法を試したが全く効かず、それどころか目を覗きこまれて慄いていたセイが、探る目つきで尋ねたが、狐は一人納得するだけで答えず、立ち上がった。  有無を言わさぬ力で、若者の左肘を掴んだままだ。 「ちょっ、ちょっと待てっ」 「何、まだ、何か言いたいか?」 「だから、まずいだろうって、言ってるんだよっ。見も知らぬ男を、そんなに無防備に、住処に入れてもいいのかっ?」  女子は、大切にしよう。  そんな兄貴分たちの躾で、セイは、訳も分からずそれを口にした。  訳は分からないが、その言葉を言われた女は、躊躇って力を緩めてくれる。  だから、その隙にと思ったのだが、狐の答えは、予想外のものだった。  きょとんとして振り返り、言った。 「あなた、男なのか?」 「はあっ?」  今度こそ、頭の中が真っ白になった若者に構わず、狐は真剣に続けた。 「だって、他のお侍さんたちと違って、全然男臭くないじゃないか。うちの子だって、立派に男だって分かるのに。いや、旅先で苦労するから、男の格好してる娘さんかと、思ってたんだけど……」  さっきの鬼の行動を見た時よりも、この怪我の経緯よりも、衝撃が大きかった。  我に返った時には、狐の肩を借りて立ち上がっていた。  隙を突こうとして、逆に突かれてしまった。  間違いない、この狐は、自分が苦手とする類の生き物だ。  これ以上抗っても、それは墓穴を掘る行為にしかならない。  そんな奴は、そう何人もいないと思っていたのに、ここにもいてしまった。  そんな奴を、二人も道連れにしているセイは、その二人に対する時の態度をとることにした。  抗えるときは抗い、抗えない時は流されて、早く離れる。  だから、狐らしい穴倉に連れて行かれ、囲炉裏らしいものの傍に座らせてもらうまで、大人しく従っていた。  狐が、竈から火種を取り出して、囲炉裏に火を熾してくれたのを見て、セイは小さく礼を言ってから、ようやくゆっくりと腕を動かした。  左手に握りしめたままだった、右腕の残骸を自分の足元に置き、足で踏みつける。  中身が変形しないように気遣いながら、何回か踏み続けて現れたのは、錆びないように工夫された鉄の棒、だ。 「……(まがね)?」  それまで黙って若者の動きを見守っていた狐が思わず呟くのに頷きながら、セイは掌の部分を残してその姿をむき出しにした。 「へえ……鉄だけで、その腕動いてたんだね。そっちの腕も?」  興味津々の問いかけには答えず、若者はその鉄の方を火にくべた。  祖父は、優れた鍛冶屋だった。  晩年は武器だけでなく、他の道具を作るのも一任されていたが、孫である若者の義手にはかなり真剣に取り組んでいた。  その一つが、これだ。  骨があるはずの義手のその部分を、熱くなりやすい鉄にすることで、若者の弱い部分を補ってやれると考えてくれた。  持ち手がないと、左手まで焼けて壊れかねないので見せられないが、指の関節まで鉄で再現している力作である。  狐が見守る中、セイは右肩に巻かれた手拭いを外し、衿口を開いた。  傷口が露わになり、顔を顰める子供の顔が横目に映るが、それにも構わず、火にくべていた鉄の棒を手に取る。  躊躇いなく、その鉄を傷口に押し当てると、子供が小さく悲鳴を上げ、狐も流石に顔を顰めた。  肉の焼ける嫌な音と匂いが漂う中、若者は無感情のまま傷を完全に焼き塞ぎ、塞ぎ残しがないかを確かめてから鉄の棒を離した。  服を羽織りなおして衿を正し、止血に使った手拭いでまだ熱い鉄の棒を包んでから、若者はようやく姿勢を正して狐を見た。 「助かった、本当に。改めて礼を言う」  役に則った言葉使いでの礼に、狐は頷いてから、思わず尋ねた。 「……痛くないのか?」 「痛いに決まっている。あんたは、腕切られても、痛くないのか?」 「痛いと思うよ。まだ、斬り落とされたことがないから、分からないけど。でも、随分、平然とやってたから、痛みがないのかなと……」 「痛い顔をしたら、痛みが和らぐのか? そうは思わなかったが」  無造作に後ろで束ねただけの髪の乱れを、軽く整えながらの声は、いつもの調子を取り戻していたが、これ以上の最悪な事態に対する術は、まだ思い浮かばない。  問われるままに答えながら、立ち上がったセイを、狐は慌てて止めた。 「ちょっと、そんな怪我で、どこに行く気だっ?」 「用は済んだから、お暇する」 「少し休んで行け。そんな状態で歩いたら、本当に危ない」 「そんな暇は、ない」 「暇も何も、ないだろう。血も随分流れているし、ふらふらしてるじゃないか」  本当に心配した声に、同じくらいの目線の狐と目を合わせ、若者は首を傾げた。 「そういう心配は、この下の村の民に、向けたらどうだ?」  反論しようと口を開く前に、早口で言い切る。 「こんな所で、のんびりしてたら、間違いなく、村一つ無くなるぞ」 「……どういう意味だ?」  突拍子のない断言に、思わず聞き返した狐に、セイは真面目に答えた。 「私の連れは、特に今いる連中は、それが出来る奴らだ。ここでのんびりとして、出方を誤ってしまったら、間違いなく、あの村の人間たちを滅する方へ、傾いてしまうだろう。それでもいいのか? あんたはあんたで、何か考えがあって、あんな格好で村に入り込んでいるんだろう?」 「あんな格好って……」 「人間に近い所に住んでいる割に、緊張感がないな。私でなくても、少し力のある者なら、気づくぞ。あんたが何に化けて、あの村に入り込んでいるのか」 「…‥」 「人間を、傷つける者じゃないから、本当に力を持つ者は、あんたを見逃しているだけだ」  傷の痛みを、呼吸を整えることで和らげながらのその言葉に、狐は肩を落とした。 「分かっている。この山で、命を落とした人たちの何人かにも言われたからね。でも、それが、見逃されていたのが、本当に良かったのか、分からなくなった」  本当に、どうにかしなければならぬのは、村に住み着いた鬼ではない。  正体も分からずその影に怯え、自分たちに火の粉がかからぬよう、何の関係もない人たちを手にかけて、差し出している村人たちだ。  そう考えた狐は、何とか村人の恐怖を削ごうと試みていた。  が、それは、毎年失敗に終わっていた。 「……私の連れたちは全員、根元から憂いを絶つ、そう決心できる気概と力を持っている。あんたが何を考えていようが、全く考えずに動ける奴らだ。そうされたくなければ、ここでおとなしくしていてくれ」 「根元は、私かも知れないじゃないかっ。憂いを絶つ、と言う考えがあるのなら、私の首を持って行ってくれっ」  縋る相手の間を上手く抜け、セイは背を向けたまま声を投げた。 「そんな誤魔化しが通るなら、会った時に、そうしている。村で顔を合わせた時に、真っ先に」  無感情な声は、それが本当に出来る、と言っている。  流石に体を強張らせた狐を振り返り、若者はゆっくりと告げた。 「別な、糸口があるはずだ。それを手繰れば、きっと、村人も無事に、助けられる」 「どこに、それがあるんだ?」  声もない狐の傍で、子供がようやく声を出した。 「だから、それを見つける。ここで休んで、後手に回るわけには、いかない」  自分に言い聞かせるように、若者は言い切った。  そして今度こそ歩き出したセイは、不意に後ろ髪を引かれた。  なぜ、そんな思い切った行動をしたのか、子供には自分でも分からなかったが、ふらりと歩き出したその背に揺れる、真っ直ぐな黒髪に思わず手が伸びてしまったのだ。  文字通り後ろ髪を引かれて体勢を崩した若者は、受け身も出来ずに後ろに倒れた。  まさか、ここまで簡単に倒れるとは思っていなかった子供は、下から睨まれてわたわたと言った。 「血を流した分は、休んだらどうだっ? 食い物なら、少しはある」  何かを言われる前に、早口でそう言い、子供は狐に声を掛けた。 「水を汲んでくる。魚焼くのは、任せた」  二人の返事を待たずに駆けて行く子供を見送って、何とか這い起きた若者は、立ち尽くしている狐を見ながらその場に腰を落ち着かせた。  青ざめたまま、ぎくしゃくと動き始める姿を、その姿勢で見上げて小さく息を吐く。  上の空のようでも、子供に任されたことは分かっているようで、住処の奥に行き、昼間に獲ったらしい魚を三匹手に戻って来た。  火を大きくして串刺しにした魚を、囲炉裏の周りに立てて行く。  一連の動きが止まって、囲炉裏の前で座り込んだ狐に、若者は静かに問いかけた。 「あの鬼、いつから、村に住み着いている?」  顔を上げた狐は、ぼんやりとしたままで、セイはもう一度問いを重ねた。 「元から住み着いていたわけじゃ、ないんだろ? あんたよりも、年は重ねていない鬼だ。いつから、あの村を餌場にしている?」 「はっきりとは、覚えてない。でも、今の村長の、二代前くらいからだったと思う」  年齢的には、その位だ。  先ほど会った大男を思い浮かべながら頷き、若者は更に問いかけた。 「あそこまで、村の者以外の者を巻き込み始めたのは、いつからだ?」 「……どうして、そんなことを訊くんだ?」 「何となく、儀式自体は、もっと前からやっていたような、そんな感じだった」  箱は手入れされていたが、かなり古い木製のものだった。 「五、六十年前……それまでは、梅雨時に、この下にある、鳥居の前で村の若い男衆の一人が、貢物と共に一晩残って、祈るだけの儀式だったんだ」 「祈る? 何を?」 「雨を、止めないでくれ、って」  肩を落としたまま、狐は力なく話し出した。  事の発端の、ある出来事を。
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