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狐の話
昔、それこそこの国が、ようやく国らしい活気を見せ始めた頃まで遡った昔。
その狐は、ある人間の男と添うことになった。
「でも、母も言っていたんだけど、決して想い合っての契りじゃなかった。父だった男は、友人の男との約束を、死ぬ前に守りたいと、自分を慕っていた女の、母と添うことにしたんだって」
その約束は、どんなものだったのか、雅は知らない。
母の寿は知っていたようだが、未だに口を割ってくれないのだ。
「そりゃあ、言えんだろう。あんな理由で、子まで作る気になったなど、当の子供に言えるわけがない」
「あんな理由? どんな理由ですか?」
話し出した雅の問いに、鏡月は小さく笑いながら首を振ったが、その笑顔は剣を帯びているように見えた。
「それは、オレの口からも言えんな。しかし、そんな昔から遡らんと、話は進まないのか?」
「ええ。多分、発端は、その契りから、ですから」
一年後、寿は無事子供を出産した。
四つ子の、男女の子供だった。
「一人は女児で、残りは男児。ただ……」
女児以外は、普通の狐の形で生まれてきた。
人間などと混じったせいだと責められながらも、寿は大事に育てた。
「人間だった父は、寿命間近になって、山を下りて姿を消しました。こんな平穏な死にざまを、私たちに見せたくないって、自分勝手な理由で」
子供を可愛がっていたはずの男のその仕打ちに、寿は一途な思いを断ち切った。
「狐の性が芽生えちゃったって言えばいいかな……。それから、今まで男をとっかえひっかえ……」
これまで、夫に嫌われぬように抑えていた分、かなり荒れた。
「それを見ていられなくなったんでしょうね。弟たちは、山を下りてしまいました」
自分と、兄を残して。
姿は狐でも、母は妖しの狐だったせいか父親の言葉も分り、年を取るごとに姿も変えられるようになっていた兄は、母を正気に戻したい一心で、父の姿を模そうとした。
「でも、どうしても、母に似てしまって……最初から父親似の私を羨ましがっていました。私は私で、こんな容姿、嫌だったんですけどね」
自分たちを、捨てた父親に似た自分。
それを割り切れるようになるのは、随分後になってからだ。
兄の方は、容姿の違いは早々に諦め、中身を似せようと努力し始めた。
刀を持って諸国を回り、数年戻らない事が多くなった。
「その頃から、山の下に人間が住み始めて、やがて村が出来た」
どこから流れて来たかは、分からない。
だが、周囲には獣しかいなかった山の下は、人間独特の活気が出て来た。
時々山の中に村の人間が入って狩りをして行くくらいで、これまでと変わらぬ日々が続いていたが、その数年後それは終わった。
「ある、こんな雨の時期です。兄が、ひょっこり戻って来ました。随分この辺りも賑やかになったって、嬉しそうに」
その頃から、この山に住む、自分たちの存在が知られつつあった。
そして、人の姿で出入りしていた兄は、ある日村の娘に見とがめられた。
村長の一人娘だったその娘は、兄に親切心で注意し、旅人と誤魔化した狐を家に招いた。
そして、見知らぬその者を、心底好いてしまった。
それに気づいた兄は、早めに姿を消したが、その姿が山に消えるところを目撃されてしまっていた。
「その頃には、なぜか、たちの悪い狐が巣食っているって話が出来上がっていて……まあ、あの頃の母は、確かにたちの悪い狐だったから、流石に自重を促してたところだったんだけど、よりによって、村の者に手を出したことにされちゃってね」
蓋を開ければ何のことはない、寿の息子が山から下りて来なかったと言うだけの話だ。
村長の娘は、心底その狐に惚れてしまい、村長も一人娘の気に入った男ならと、一晩のうちに決めてしまっていた。
「女の惚れたはれたは、そう言う方向に行っちまうからなあ」
蓮がしみじみと頷き、先を促す。
「そうだよね。親が下手に力あると、更にとんでもない話になる」
この場合の力は、財力であったり、権力であったりするのだが、実際、とんでもない話になった。
その年の雨の日、村人総出による山狩りが行われた。
やけくそ気味だった寿は、逃げも隠れもせず、彼らを迎え討った。
討たれてこの世を去っても、構わないと考えていたのだろうが、そうはならなかった。
「村人が持ち寄った、つたない武器に倒れたのは、母親を庇った、兄だった」
半分しか血が流れていないとはいえ、妖しの者の急所を、偶然にも狙われてしまったのだ。
「住処に運び込んだ時には、すでに息はなかった」
手当てに回った雅の、悲痛な声の前に寿もそれを知り、怒りで我を忘れた。
襲ってくる村の男衆を圧倒的な力で追い返し、最後に叫んだ。
「どんなに年月が過ぎようと、この恨み忘れるものか、末の代まで決して許しはしないっ」
血を吐くような恨み言に、村人は震え、怯えた。
どんな祟りが、この村を襲うのか。
そんな空気の中で、その恨みによるものと思われる出来事が起こった。
その翌日から、雨が、降らなくなってしまったのだ。
「雨?」
「そう。その年は、土を少し湿らせる程度の雨しか降らなくてね、村の民は、狐の祟りだって、言い合った」
葵が目を見張った。
「狐って、本当に、そんなことが出来るんですかっ?」
江戸や上方で増え始めた稲荷神社は、それを裏付けているのかと納得しかかった大男に、鏡月が呑気に笑った。
「出来るか。そんな、煩悩に溺れた狐が、天候を左右させるなど。出来そうな狐に一人心当たりはあるが、そいつはやれてもやるような奴ではない」
「そう、出来ないよ、そんな神がかった事。でも、時期が悪かったんだろうね。そう考えて、村の人は二度と山のこの住処に登って来ることは、なかったよ」
その上、何とか狐の怒りを鎮めようと、村の民は村で収穫した物を、供物としてささげ始めた。
「翌年、山と村の境に鳥居が建ってね、そこに置かれるようになったんだけど……」
雅は、そこで苦い顔になった。
「もう一つ、木でできた人一人楽に入りそうな箱が、並んで置かれてた」
夜、重々しい蓋のその箱が村の男衆の手で置かれ、蓋が仰々しく開けられる。
その中身を初めてみた時、雅は村の男たちの正気を疑った。
自分の兄位の外見年齢の、若い男が震えながらその中で正座をし、念仏を唱えている。
「……生贄、か」
呆れて呟いた鏡月に、雅も苦笑で頷く。
「そのつもりだったみたいです。追い払おうにも、もしこちらが出ることで、心の臓の動きが止まったら大変でしょう? だから、一晩放って置いたら……」
翌日の朝、様子を見に来た村人と共に、その若い衆は村に戻って行った。
「これで、こちらの気持ちが通じるのなら、話は楽だったんだけどねえ……」
安心したのもつかの間、その晩も、翌日の晩も、その奇妙な動きは止まらなかった。
「しかも、とっかえひっかえ、十代の若い衆が、同じ場所で一夜を明かしていくんだ。もう、勘弁してほしかったよ」
この奇妙な儀式は、雨季のこの時期を過ぎると不意に終わった。
「その時は、本当に安心したんだけど……」
その儀式は、翌年の同じ時期にまた唐突に始まった。
「それから毎年、よく飽きないなって位、本当に長い間続いた」
そして、先に音を上げたのが、母親の寿だった。
「まあ、気持ちは分かるし、先に音を上げたものが勝ち、って奴だよね。それでも、五十年位は我慢してたから、あの人にしては、気が長かったよ」
一人になった雅は、いつかは忘れてくれることを祈りながら、村人の泣きそうな謝罪を、聞き続けていた。
「でも、それもだんだん億劫になって来たんだ。で、ある年の雨季の初め……」
そこで、雅は口ごもった。
「……あんたは、何とかしようと、動いたんだな?」
蓮の静かな問いかけに、娘は無言で頷いた。
「それが、あんなことになるなんて……思いもしなかったんだ」
ゆっくりと、自分がやってしまった事を、雅は口に乗せた。
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