若者の決断

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若者の決断

 五、六十年前、狐は意を決した。  このまま忘れてくれることを祈りながら、村人に気遣いながら山を上り下りするのは、もううんざりだ。  直接、村人に話を付けよう。  決心した狐は、ある年の雨季の初め、いつものように若い衆が一人で祈り始めた時、声を掛けた。 「私の顔を見た途端、その人は、一目散に村に逃げ帰った」  そんなに恐れられていたのかと、かなりの衝撃を受けたが、狐はめげなかった。  その年の若い衆は、全員が人の姿をした狐に会い、一晩持たずに逃げ帰ってしまった。  最後辺りは半ば意地と、もしかしたら、こうして怯えさせれば、次の年からは静かかもしれないという願いで、狐は姿を見せ続けていたのだが……。 「九日目に来た人は、様子が違っていたんだ」  そもそも、村人ですらなかった。  村の若い衆が怯えきってしまったのか、病が蔓延していたのか、その夜来たのは、たまたま村に立ち寄った、医者の若い男だったのだ。  その若者は、突然出て来た狐にも目を見張っただけで、逃げなかった。  そして狐は、初めて、父親以外の人間に、笑いかけられた。  狐はその若者に、村人たちへの伝言を頼んだ。  若者は、快く引き受けてくれ、一晩いる約束だと言って、その場で狐と会話を始めた。  自分の故郷の話から、今まで立ち寄った村々の話、これから医学を勉強する為に、出島へと向かっていると言っていた。  しっかり医学を身につけて、再びこの村に立ち寄ろうと若者は言い、翌朝村へと戻って行った。  その背を、狐は見えなくなるまで見送った。  再び会える日を楽しみに待つつもりでいたのだが、それは意外に早かった。 「その日の夜、その人が、無造作に山に投げ込まれた。私が、余計な事をしたせいで……」  急いで若者に近づこうとした狐は、その若者の傍に蹲る者を見た。  それが、あの鬼、だった。  もう動かない若者に何をしているのか、狐にはすぐに察しがついた。 「見ていられなかった。何とか、あの人を、助けたかったのに……」 「……」 「そこで、その年の儀式も打ち切りになった」  本当に、これで終わったと、狐は思った。  その代償はあまりに大きかったが、そう考えようと言い聞かせ、自分に芽生えた思いは、胸の奥に押し込んだ。  それなのに……。 「その翌年からだよ。あんな、最悪な、しかも、村とは関係ない旅人を……」  切れ切れに、それでもしっかりと話していた狐が、顔を伏せてしまった。  セイはその話を、穴倉の石壁にもたれてぼんやりと聞いていた。  相槌も聞き返すこともせずに、ただ黙っている若者と、黙ってしまった狐の元に、先ほど水汲みに出かけた子供が戻って来た。  そして、静まり返っている二人に一瞬立ち竦み、そっと狐に声を掛ける。 「おい?」 「ん? あ、ありがとう。湯を沸かそう」 「ああ。大丈夫か?」 「大丈夫だよ。……あなたも、血を多く流したんだから、少し体を楽にしてから、動いた方がいい」  声を掛けた先の若者は、黙り込んだままだ。  目だけを二人に向けて、小さく頷きながらも、何かを考えているようだ。  優しく子供に笑って見せて、狐は鍋を火にかける。  その様子を見るともなく見ながら、セイは不意に声を掛けた。 「少し、尋ねてもいいか?」 「ん? 何を?」 「あんたの二人の兄弟は、今どこにいる?」 「さあ、あの子たちは、多少力のある狐ってだけだったから、今も元気かは分からない。ただ、兄のこともあるから、もしかしたら独り立ちしてから、そういう力を身につけたかもしれないね」 「他に、親族は?」 「母方が伯母と叔父の二人で、父方が一人。父方の方には一度も会ったことないし、母方は叔父と顔を合わせたことがある位で、ここに近づく親族は、あまりいない」 「……最近、その叔父と会ったか?」 「いや、そう言えば、あの鬼が来る前は頻繁に来ていたけど」  その叔父は、一人でこの山に住む娘が不憫だと、よく顔を見せた。 「……そう、か」  一瞬、目を細めて頷いた若者のその仕草に引っ掛かりを覚えたが、尋ねる前に相手は再び石壁に背を預けた。  相当辛そうに見えて、狐は眉を顰めて器を差し出した。 「効かないかもしれないけど、痛みを和らげる位は出来る薬だよ。気休めにしかならないけど……」  目の前に差し出された器を凝視し、セイはその器越しに狐の表情を見る。  焦燥していたが、自分を心配しているのは伝わって来た。  左手を器に伸ばしながら、セイは言った。 「私が出会う狐は、どうしてこうも人が良いんだろうな。人の心配してる場合じゃないだろうに」 「あなたの連れが、あなたを探しに山に登って来ても、一向に構わない。むしろ、そうしてくれた方がいいかもしれない。元を絶てば、今度こそ本当に、村も、旅の人も、助かる」 「元、か。それは、あんたじゃないだろう」 「いや、自然に廃れたかもしれない儀式なのに、それが待てなくなった、私が一番悪い」 「……」 「あの人に、私は名前をもらった。母の名前を聞いたあの人が、笑いながらつけてくれた名前だ。でも、あの人の仇の村の人間たちを憎む気持ちは、起こらないんだ」  男の形で過ごすようになったのは、願掛けのようなものだ。  儀式は意味がない、それを村人たちに分かってほしい、そんな願いを、この数十年持ち続けていた。  狐は、子供に目を向けて小さく笑った。 「何年前だったかな、この子を連れたお坊さんが、あなたと同じことを言ってくれたよ」  村の異様な空気を察したその僧は、それを見つけかかっていたようだった。 「……村の長の家で、何かと話をしていた。オレには見えないモノと」  首を傾げる子供の頭を撫で、微笑んだ僧は、その日のうちに村人の手にかかった。  お前のせいではない、きっと別な糸口はある。  寝床から消える前にすれ違った時に、やんわりと言ってくれたその僧が残した子供を、狐はすぐに山に連れ帰った。 「情けないけど、それ位しか出来なかった。今まで、死んでいった人たちを弔ってやることも出来ないんだ」 「……そうか。なら、それ位は、出来るようにしよう」  不意に、セイが身を起こし、きっぱりと言った。  痛みの波が落ち着いた今が、動く時だ。  手にしていた器を勢いよくあおり中身を空にしてしまうと、静かに狐に差し出した。 「これの礼だと思ってくれていい。その儀式の元を、私が、絶つ」  言い切った若者が、二人に笑顔を向けた。  それは、先ほどの身震いする笑みではなく、相手を抵抗なく安心させる、優しい笑顔だった。
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