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もう一つの言い伝え
長吉が、小さくくしゃみをした。
そのくしゃみが何度か続き、母親が心配して子供の背を擦る。
「冷えてしまったのでは、ないか?」
エンが、優しく呼びかけた。
「もう、寝かしつけたらどうだ?」
母親が、返事をする前に、長吉が首を振った。
そして、母親の体にしがみつく。
「まあ、たまには夜更かししたい日もあるか」
その様子を見守っていたロンが微笑み、エンも頷くと自分の寝具を引っ張り、長吉と女の方へ押しやる。
「この時期に、風邪を引いたら厄介だ」
雨季で夏もすぐそこだが、山沿いの村は寒暖の差が大きい。
それを心配する旅人の言葉に甘え、母親は子供の背に寝具を被せて座りなおした。
それを見届けてから、エンが続きを促すように尋ねた。
「その娘に罪を被せた、という事はその娘が、山の狐だったのか?」
「それが、分からぬのです。ただ、我が家の先祖の娘とは仲が良く、二人共器量がよろしかったので、姉妹のように見えるようになったほどだったと、伝わっております」
そして、村を出た娘が、狐の住むと言われる山に向かったのが、男衆の口から出たでたらめを、村の衆に信じさせるものとなってしまったのだ。
「それで……」
驚きの声を上げ、目を見開いていたコトが、一度瞬きをしてから続きを促す。
「そんな疑いをかけられた狐様が、怒ってしまったのですか?」
思いのほか話に食いつく少年に首を振り、老女はゆっくりと言った。
「狐様は別におられたけれど、その娘が狐だったと言うのは、間違いではなかったのですよ」
村の男衆たちを集めて、山狩りに出た時、山の主と思われる狐の前に庇うように現れたのが、その娘だったのだ。
何事かと問う娘を、男衆たちは「退治した」のだった。
「しかも、村長が話をする前に、娘を手にかけた男が、真っ先に狐の娘に矢を放ったのです」
それにつられて他の男衆も矢を放ち、我に返った村長が声を荒げて止めた時には、どう見ても手遅れだった。
倒れた娘に、縋る女。
その傍に、駆け寄る娘。
「娘の妹らしい娘が、すでに息のない娘を山の奥へと運んで行くのを、男衆たちは更に追おうといたしましたが、残った女に阻まれたのでございます」
立ち尽くしていただけの先ほどの様子とは、豹変と言ってもいいくらいの変わりようの形相だった。
身動きできなくなった村の者達に、女はゆっくりと、恨みを込めて言い切った。
「いずれ、この場にいる者全てに災いがかからんことを、願う」
静かだが、恐ろしい呪詛の言葉を吐き、女は目を見開いた。
「立ち去れっ。二度と、この山に入るなっ」
男衆たちは、糸が切れたように散り散りに走り、山を降りて来た。
「その夜、一人の男が、自分の家で、首を括りました。その者は、二親にある話をしていたのです」
狐の娘に魅了されて許婚を手にかけた挙句、事が明るみに出ることを恐れて、その狐すらも手にかけてしまったことを。
「それを知った村の者達は、悔むことしかできませんでした」
そしてその年、雨が止まってしまったのだった。
当然の仕打ちだとうなだれる反面、女子供まで巻き込む祟りは、早く祓ってしまおうと、村人たちは話し合った。
「謝って許してもらうのが一番ですが、一番その罪のある者は、すでに世を去っております。そこで……」
矢を放った若い男衆たちを、一人ずつ山へと謝りに行かせることにしたのだった。
「雨季の初めの一晩目に、昨年の収穫の品も、捧げることになりました」
そして、今もそれが続いている。
「もう、狐様のお怒りはとけているのですけれど、この時期の儀式として永くやっておりますので、お許しをいただいたからと、すぐにやめられるものではありません」
「もう、お怒りではないのですか?」
「ええ。今から、五十年ほど前に、儀式で入った男衆が、狐様に出会ってお話ししたのですって」
「ほう」
「会った? 本当に? 狐様が?」
コトは、さっきから目を剥いたままだ。
いねはそんな少年とお武家たちに、五十年前の話をした。
「と言っても、わたくしはまだ生まれてもおりませんでしたので、これは母から聞いた話なのですが、その年、村の若い衆は全員が狐様に出会っているのです。そして、一晩待たずに山から逃げ帰って来てしまって……」
怯えてしまったのだ。
まだ、山に入っていない若い衆まで嫌がってしまい、村長は途方に暮れていた。
そんな時、一人の旅人が、村に宿を求めて来たのだった。
「コト、あなたのお父様と同じで、お医者様だったそうですよ」
正しくは、医学の勉強をするために長崎に向かう途中の、若い男だった。
耳に挟んだその話に、男は自分が行こうと引き受けた。
「翌朝山から戻ったその方は、昔怒りで呪いの言葉を吐いた狐様の、娘と名乗るモノに会い、自分も母親ももう怒っていないと言っていたと、その娘がとても愛らしい娘だったと告げて、村を去りました。その後から今までは、旅人の方を手厚く招いて、狐様には村の繁栄をお祈りする儀式へと、変わったのでございます」
「それを望んでいるから、狐も岩を動かしている、という事か」
考え込みながら頷くロンの隣で、エンの表情が崩れた。
「……なるほど、そう言うつもりか」
舌打ちしかねない、彼らしくない口調で、他の二人が思わず振り向いた。
「……どうした?」
色黒の男の問いかけには首を振るだけで答え、エンはいねに笑いかけた。
その表情に、先ほどの心境は微塵もない。
「話は分かったが、随分と手間をかけた足止めをする狐だな。それに、あれでは近隣の村との行き来が、難しくなる。雨季の間だけとはいえ、不便であろう?」
「この時期は、雨で行き来も困難でございますので、それほどではありませんが、先ほどお話しいたしました通り、この時期以外の交流も困難になってまいりました。嫁の来手も少なく、村は寂れる一方です」
「こうなることを、望んでいるのかもしれぬな、狐は」
「……そうかもしれません。本当は、許してはいないのかもしれません」
溜息を吐くいねの顔を覗きこみ、コトが控えめにその名を呼んだ。
「いねさま、そろそろお休みになった方が……体に障ります」
「そうだな、その方がいい。わざわざ、このようなむさ苦しい者達をもてなしてくれるのはありがたいが、それで体を壊されては、寝覚めが悪い」
「はい、申し訳ありません。愚痴めいた話で気を悪くされていなければ、よいのですが……」
また深々と頭を下げる女子供に、ロンが首を振った。
「中々面白い話だった。少し気が紛れた。礼を言う」
部屋を辞する母親の手からすり抜け、長吉がエンの前に立った。
黙って差し出された夜具を、エンはその顔を見返しながら受け取り、笑いかける。
「お休み」
「……お休みなさい」
小さく、確かに返事を返し、長吉は母親の元に戻って行く。
女子供が部屋を出て行ったその時、ゼツが背後を振り返った。
「……?」
「どうしたの?」
まだ近くにいるであろう女子供に配慮して、小声で声をかけたロンにも、その二人に厳しい顔つきで話し掛けようとしていたエンにも聞こえた。
いや、この村全体にも聞こえただろうその音は、何かが砕かれて崩れる音だった。
「……遅かったか」
雨戸をあけて外を見た二人の背後で、エンが溜息を吐いた。
「何の事?」
「岩ですよ」
「岩?」
聞き返してから思い当たった。
先ほどの音は、岩のような大きなものを、叩き割った時に響く音に似ていた。
「あいつ、まずは、旅人を否応なく足止め、村人に儀式の始まりを告げるあの岩を壊す為に、動いていたんですよ」
「なるほど、そうすれば、儀式はもう始まらないし、旅人も足止められない」
足止めるものは、別に岩でなくてもいいが、儀式と結びつけるものは今の所、山に実際にあるその岩しかないから、村人が儀式を始められなくなる。
頷く二人に、エンはまた溜息を吐いて続けた。
「感心している場合ですかっ。あくまでも、岩は足止めと、儀式の始まりを告げるモノ、ですよっ。あいつは、神隠しの元まで、根絶する気です」
「そこまでするかしら?」
「するからこそ、あいつは、山の主を村に戻らせたんですよっ」
「……話が見えませんけど」
ゼツは戸惑い気味にロンの方に顔を向けたが、向けられた方は少し考えてから唸った。
「まさか、足止め?」
「ええ。そうでないと、こんな夜遅くにわざわざあの三人について、ここに来るはずがありません」
たまたま、いねに同行できたから、余計な疑いはかけられなかったが、そうでなくてもその狐の事だ、自分たちを動けないように持って行く策を、練ることは出来ただろう。
「でも、どうして、そこまで……」
「あなたの悪い予感、当たっているかもしれません」
静かな声が、他の二人を凍らせた。
大量に血が流れたという事は、それだけの傷を負ったという事だ。
「その傷が、ただの切り傷ではなく、どこかを切り落とされるほどの、大怪我だったら……」
抑えた声の言葉は、途中から誰の耳にも入らなかった。
開け放った雨戸から外へ飛び出し、旅人達は走り出していた。
音の根源があるはずの、あの岩が鎮座する道に向かって。
「……どういうことだ? あんたに聞いた話と、村に伝わる話、何でそこまで違ってんだ?」
当然の問いに、雅は苦笑して答えた。
「私も驚いたんだけどね、思い出してみれば、確かに村の言い伝えの方がしっくりくるんだ」
「……?」
「だろうな」
鏡月も苦笑して頷き、眉を寄せる蓮に答えた。
「狐は元々、女の方が化けやすいらしい。半分しか狐の血が入っていない雅の兄が、そう簡単に、男に化けられるようになれたとは、思えんからな」
「男の狐でも、女に化けちまうんですか?」
驚いた葵の問いにも、若者は頷いた。
「男に化けられる狐は、相当の力を持っていることになる」
「私の叔父も、力がなくなった後は、女に変わっていましたからね。狐が化けるのはそう難しくないんじゃないかと思います」
「……寿の弟か? 力がなくなったのを、お前は知っているのか?」
「ええ、まあ」
目を細めた鏡月の問いには曖昧に答え、雅は続けた。
「井戸の前に、時々うっすらと、若い娘さんが立っているのが見えてたんだ。泣きそうに顔を歪めて、何かを言おうとしているけど、私にはその何かを聞き取れない。でも、その娘さんが誰かは、この時に分かった。あれが、許婚の手にかかった、村長の娘だったんだ」
分かりはしたが、その後確かめることは出来なかった。
その直ぐ後に、事が、目まぐるしく動き始めたのだ。
「部屋を出たあとすぐに大きな音がしたから、何とか足止められたかな、と思ったんだけど、音が大きすぎたんだね、村中が大騒ぎになっちゃったんだ」
村長の家でも主人が起きだし、村の男衆を集めて慌ただしく音の方へと向かい始め、騒々しさが過ぎた家の中に、武芸者たちの気配がないのに気付いた。
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