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村の女衆の決断
騒々しく戻った村長を、コトが目を見張って迎えた。
「どうなさいました?」
「逃げるぞ、ここはもう、駄目だ」
年かさな割に動きが早い男が、身の回りの物をかき集めながら若者に声をかけた。
「いねは? 寝てるのか?」
「いえ。すえ様と、何やらお話しております」
男は忌々しいと舌打ちする。
「あんな女、放って置けば良いものを。後継ぎの子供を手に掛けよったくせに、何食わぬ顔で、まだ残っておるのか」
吐き捨てるように言ってから、コトに言った。
「すぐにいねを連れてこい、ここは危ないのだ。すえは残す」
「はい」
それに答えてコトは踵を返し、そこに立つ女に気付いた。
「……すえ様」
村長が振り返ると、すえは静かに立ち尽くしていた。
「何の用だ。早く休め」
声を荒げないようにそう呼びかけるが、女はそれに答えず別な方へと目を向けた。
「……何を、そんなに慌てているのです、あなた?」
静かに、いねが夫である男に呼び掛けた。
玄関に続く廊下に、いねは座って、男を見上げていた。
「丁度良い、話があるのだ。すえはもう休んでいなさい」
顔を引き攣らせながらも声を抑え、男が若い女に申し付けるが、それに小さく笑ったのは、いねだった。
「その子にもお話しくださいな。この村はもう、おしまいだと」
「な、何を……」
「逃げて、他の場所で同じことをするよりは、ここでおしまいにした方がよいでしょう」
思わず目を剝いて拳を固めた男は、いねが一人ではない事に気付いた。
女房の背後に、村の女衆が静かに座している。
「おお、丁度いい、皆にも話を……」
「連れ合いは、もうこの世には、いないのでしょう?」
いねのすぐ後ろで座していた女が、男の子供を抱きかかえたまま、村長を遮った。
「どのような話も、聞きたくはありません」
「大体、なぜ、あたしたちは、男どもの所業に気付かなかったんだろうね。それに腹が立つったら」
気の強い女が、腹立たし気に呟き、連れ合いの顔を思い浮かべ、吐き捨てた。
「あの呑気者が、そんなとんでもない事をしていると分かってたら、尻を叩くだけでは、済ませなかったのに」
「それもこれも、全て終わってしまった事。これ以上、遺恨を残さぬよう、あなた」
静かに立ち上がったいねが、男の前に立った。
「黙れ、今迄の恩を忘れて、我らの事を責めるかっ。もういい、お前たちはここに残るがいい、儂は、村を出るっ。いくぞ、コトっ」
呼びかけた若者の、返事がない。
振り返って、愕然とした。
立ち尽くしたまま、コトが目を剝いている。
その横腹から、包丁の刃先が突き出していた。
「大丈夫、この子はこの位では、死なないそうよ」
言いながら、いねは夫の背後へ歩み寄った。
袖口に隠していた包丁を構え、体ごとぶつけていく。
「い、いね……」
「あなた、先に行って待っていて。すぐに追いかけるから」
斜めに心の臓を狙った刃は、男をすぐに絶命させた。
床に倒れた村長を、目を剝いたまま見下ろしたコトが、後ろの女を振り払った。
声も立てずに吹っ飛び、部屋の中で転がったすえを見向きもせず、目を見張る女たちを睨む。
「知らずにいれば、幸せであったものを。あの連中、余計な事をしたものだな」
「いいえ。知らずに罪を重ねて、国元にそれを知られて罰せられるよりは、まだましです」
なぜなら、少ないながらも嫁に出た娘達が、郷の行いのせいで、肩身の狭い思いをしなくて済む。
「私たちがどう考えて、どう処断するのか、その猶予を下さった。それだけでも充分です」
「……村の長の女は、半端に学がある分質が悪いな。流される女子どもなら、もう少しこの村も使えたと言うのに」
吐き捨てる若者に、いねは小さく笑った。
「あなたは男の狐なのだそうね。女子なのに男の振りを必死にしているから、庇っていたのだけれど」
「庇うだとっ? 女のくせに、私を馬鹿にするのかっ」
顔を怒りで歪ませつつ若者が、前に足を踏み出すが、女はゆったりと笑った。
「すえがあなたを刺した包丁、あのお武家様の、置き土産なのですよ」
「それが、どうしたっ?」
怒鳴るように問うコトに、困ったように続ける。
「あなたの様な者には、決して抜くことが出来ない、呪いものだそうです」
目を剝いて包丁の柄を握り、引き抜こうとして叶わず、痛みで顔を歪めた若者に、いねは静かに告げた。
「この村はもうおしまいです。ここももう用はない。今から火を放ちます。その前に、あなただけでも逃げなさい」
「お前っ、私に情けをかける気かっ」
顔を歪めて怒鳴るコトに、女は困ったように後ろを振り返った。
数少ないながらも、子供連れの女もいる。
「騙すためとはいえ、あなたは私たちをよく助けてくれました。この位の恩返ししか出来なくて、御免なさいね」
いねはそれだけ言うと、ようやく身を起こして立ち上がっていた、すえを呼んだ。
若い女は、若者を見向きもせず女たちと合流し、共に奥の間へと歩き出す。
そんな女たちを見送らず、コトはふらつく足を動かし、外へと向かった。
止まらぬ血を、転々と足元に落としながら外へ出て山に入っていくと、そこに立つ背丈のある若者を睨む。
「……あと一歩で、望みが叶ったと言うのに、私を怒らせたなっ」
「ああ」
片腕の若者が、あっさりと頷いて答えた。
そんな若者を睨みながら、コトは吐き捨てた。
「お前が姪を誑かしたせいで、こんなことになったんだっ、どうしてくれるっ?」
セイが、目を丸くしているのにも構わず、狐は続けた。
「その顔で姪を口説いて、誑かすなど、卑怯だぞっ」
「くどく、たぶらかす……」
今度は眉を寄せて、隣に立っていたオキを見上げた。
「この国の言葉か?」
「ああ、間違いなく、この国の言葉だ」
顔が緩みそうになりながら男は答えた。
「どういう意味だ?」
素直なセイの問いに、オキは真顔を無理に作って、答えた。
「その狐は、山の主の狐に、べた惚れしてるってことだ」
「ふざけるなっ、私が、人間の血の混じった半端ものを好きになるかっ、好いているのに、あの娘が気づいていないだけだっ」
明らかに話が分からなくなっている若者に、オキはらしくないと思いつつ説明した。
「要は、姪のあの女狐が、自分を好いているのに気づいていない、鈍い女と思い込んでいるこの狐が、それに気づかせるために苛めてたって訳だ。慰めてやれば、流石に振り向くだろうと」
言いながら、ほとほと呆れてつい言った。
「もしかして、あの女狐に夜這いをかけて、逆に力を奪われたのか?」
「そうだっ、あいつは恩知らずにもほどがあるっ。だから、私はちゃんと、教えてやらねばならんのだっ」
しっかり認められるとは思わなかった男は、呆れ返って言った。
「はあ、自惚れもここまで来ると、何も言えんな」
「黙れっ、猫風情が、私を馬鹿にするかっ?」
怪我のせいなのだろうか、言っていることが全く分からない。
セイは、眉を寄せたまま会話を聞いていたが、最後の言葉で、男が真顔になったのには気づいた。
「黙るのは、お前の方だ、狐風情がっ。ちょうどいい、オレがその体切り刻んでやる」
「……やめろ」
刀に手を伸ばしたオキを制止し、セイはコトを見た。
「今夜の所は、見逃してやる。いねさんに感謝の一つもしてやってくれ。あの人が、あんたの命乞いをした。だが」
若者は、ゆっくりと微笑んだ。
目は無感情のままだが、その笑みは自惚れの強い狐すら見惚れる、美しいものだった。
「しばらく、この山で封じられていろ。運が良ければ、誰かが助けてくれるだろ」
「な……」
怒鳴ろうとする声は、途切れた。
目を見開いたまま、その場で固まって動かなくなる狐に背を向け、セイは村の方へと歩き出す。
山を出た若者は、明るくなったその風景を、無感情のまま見つめた。
一つの家が、火の塊となっていた。
「……」
黙ったまま目を閉じ、顔を伏せる。
炎の中に敢て残った女たちを思い、若者はそうしているしかなかった。
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