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「次はどこ行く?」
のれんをくぐって甘味処を出ると、当然のような口ぶりで奈央は言った。
「ちょっと、今日はあんみつ食べるだけじゃないの?」
「いいじゃん。折角なんだし遊ぼうよ」
どうせ暇でしょ、と奈央は意地悪く笑った。君花は「決めつけないでよ」としかめ面を作ったが、実際のところ全く何の予定もなかった。
「そういえば、あの水泳教室ってまだあんの?」
「やってるよ。今は大人向けの教室も開いてて、そこそこ繁盛してるみたい」
君花が答えると、奈央は「そっかぁ」と懐かしむような眼差しを空に向けた。
「急な引っ越しで通えなくなってさ。ま、引っ越しっても隣の市だけど」
「あぁ……だから突然来なくなったんだ」
君花は目を軽く見開いて頷いた。
水泳教室に君花が通い始めてから一年近く経った頃、奈央は講習に姿を見せなくなった。退会したという話は指導員から聞けたが、それ以上の詳細は分からなかった。
奈央がいなかったところで、水泳に支障があるわけではない。君花は気にせずしばらく通っていたが、段々と講習の全てをひどく退屈に感じるようになり、一年を越した辺りで辞めてしまった。
寂しかったんだ、と今なら素直に思える。
気に食わないことも多々あったが、それも含めて「カッパちゃん」との交流は楽しかった。
「ジミカ、私がいなくなって泣いた? 泣いたでしょ?」
君花の二の腕を指でつつきながら、にやにやと奈央は言った。しんみりと過去を想う気分があっという間に壊れ、君花はハアアと力の抜けた息を吐いた。
「泣いてない。あと、ジミカって呼ばないで」
「そっちもカッパって呼べばいいじゃん。そしたらおあいこ」
「奈央って呼ばせてよ、単純に」
君花がうんざりした調子で言うと、奈央は目を丸くして「『羽崎さん』じゃなくなってる」と弾んだ声を上げた。
大仰に咳ばらいをして、「行き先だけど」と君花はやや強引に話題を転じた。
「水泳教室、見に行ってみない? 泳ぐのは無理だけど、高林さんに頼めば見学させてもらえるから」
「マキちゃんまだ働いてんの? 『辞めてぇ~』って口癖みたいにぼやいてたのに」
「たまに会うけど、今でも『辞めてぇ~』って言ってるよ」
君花が知り合いの事務員の口調を真似ると、奈央は「それそれ」と腹を押さえながら大きく笑った。
「あぁ、久々に生『辞めてぇ~』聞きたくなってきた」
奈央は君花の手首を無造作に掴んで、ぐいぐいと引っぱった。
それから僅かに小さく抑えた声で、「行こ、君花」と言葉を継いだ。
「うん、奈央」
同じくらいの声量で返しながら、君花はレンガで舗装された歩道の向こうを見据えた。まぶしく注ぐ陽光のせいか、進路の先が柔らかな光を放っているように思えて、君花はそっと目を細めた。
かつて途切れたはずの道が、もう一度未来へ向かって伸びている。進む先に何があるかは分からないが、きっとそんなに悪いものではないと、手首に触れる温度が教えてくれている気がした。
「やっぱジミカって呼ぶ方がしっくりくるなぁ」
ぶつぶつと奈央が呟くのを聞きながら、とはいえ紆余曲折ありそうな道だけど、と君花は苦笑した。
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