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小学生の頃、君花は一年間ほど近所の水泳教室に通っていた。
教室には似たような年齢の生徒が何人も通っていて、「カッパちゃん」もその内の一人だった。
「最初にジミカって呼んだのはさ、言い間違いだったんだよね」
奈央の言葉に君花は頷いた。自分の記憶を辿ってみても、初めてジミカちゃんと呼ばれた際、すぐに「キミカちゃん」と訂正された覚えがある。
当時の君花は――今もややその傾向はあるが――感情がそのまま顔に出る質だった。イヤミを言われたと反射的に捉えて、君花はくしゃりと顔をしかめて不快感を示した。丸めたティッシュのようなしかめ面を見て、奈央はけらけらと腹を抱えて笑った。
「あの反応見て、味占めちゃったんだよねぇ。この子からかったら面白いって」
にまにまと意地悪く笑って奈央が言った。「占めないでよ」と君花はため息を漏らす。
それ以降、奈央は君花に積極的に話しかけてくるようになった。ジミカと呼ばれる度に君花はティッシュ顔で抗議し、それを見て奈央は大いに破顔した。
からかいたがる悪癖を除けば、奈央は懐っこく友好的で、水泳の合間の休憩時間はほとんどいつも二人で喋って過ごした。
君花は内心複雑だった。あだ名は気に食わないが、奈央との交流は思いのほか楽しい。反抗と友好の狭間でいつまでもぷかぷかと立ち泳ぎをしているような感覚を、当時の君花は味わっていた。
「今思うと、仲が良かったといえば良かったのかな」
君花が腕を組んで言うと、奈央は不満げに「もっと自信持ってよ」と指先で机をつついた。
「仲良しだったじゃん。お互いあだ名で呼び合ってたし」
「だってそれは、あだ名で呼べってしつこく言うから」
言いながら君花は、ゴーグルからしたたる水で偽の涙を演出しながら「私にもあだ名つけてよう」と泣訴する奈央の姿を思い返していた。
下手な演技にうんざりしながら考案したのが、「カッパちゃん」というあだ名だった。
奈央は泳ぎが上手かったが、それを褒めた呼び方ではない。奈央が使っていた水泳キャップは、頭の頂点辺りに白い円が描かれたデザインをしていて、それが河童の皿のようだとからかう意図だった。一方的にジミカと呼ばれるのが癪で、君花は反撃を目論んだのだった。
効果は全くなかったけど、と君花は内心苦笑する。
奈央はさほど喜びはしなかったが、嫌がりもせず「じゃあそれで」とあっさり言った。君花は自分の良からざる意図をわざわざ説明すらしたが、奈央は両手を突き出し唇を尖らせて「クエー」と奇声を発するばかりだった。後から聞いたところ、河童の真似をしたつもりらしかった。
「クエー」
記憶の映像と同じように、奈央が両手を突き出し唇を尖らせた。君花は「げぶ」と奇声混じりの吐息を吹き出し、寒天のようにぷるぷると全身を震わせた。
「これ、前もめっちゃウケてたよね」
「ま、まったく、もう。そんなこと覚えてなくていいってば」
君花は腹の辺りを手で押さえ、ぜえぜえと呼吸を荒げた。
奈央はくっくと機嫌よく喉を鳴らし、黒蜜の絡んだアイスクリームをスプーンでひと掬いして口に運んだ。「甘いねぇ」と穏やかな声で呟き、日向でくつろぐ猫のように瞳を細める。
「そういえば、バニラアイスが好きって言ってたね」
「おっ。そっちもちゃんと覚えてんじゃん」
「……買わされたからね。なけなしのこづかいで」
君花が刺々しい視線を向けると、奈央は悪びれず「あの時はありがと」とひらひら手を振った。
水泳教室の入口付近は休憩スペースのようになっていて、そこにアイスクリームの自動販売機が置いてあった。講習が終わった後、奈央は度々スティック型のバニラアイスを買い、さっさと帰ろうとする君花の腕を引っ掴みながらソファに陣取って食べていた。
君花はあまり自販機を利用しなかったが、一度だけアイスを二本買ったことがある。一本は自分用だが、もう一本は財布を忘れた奈央にバレバレの嘘泣きで頼み込まれて、仕方なしに奢ったものだった。小学生当時の財政状況からすると、これは中々手痛い出費だった。
「だからさ、約束守ったよ」
不意に神妙な顔つきになって、奈央はぼそぼそと囁くように言った。
君花は何度か意味もなく瞬きをした。しばらく口をつぐんでから、気の抜けた声で「約束?」と聞き返す。
「『次は私がジミカの好きなもの買ってあげる』って言ったらさ。『じゃあ、あんみつ』って」
早口に言い切り、奈央は荒っぽくスプーンを動かして豆と寒天とみかんを口に押し込んだ。
君花はぽかんと口を開けて、束の間ぼうっと眼前のあんみつを見つめた。白い器を甘やかに彩る具材達が、天井からの灯りに照らされて、きらきらと輝いて見えた。
「それは、えっと……ありがとう」
器に並ぶ白玉を眺めながら、君花はぎこちなく感謝を述べた。口をついた言葉が、好物を奢ってくれることに対してのものか、何気ないやり取りを覚えていてくれたことに対してのものか、自分でもはっきりと分からなかった。
何となく照れくさくて、奈央の方を真っ直ぐ見られないまま、君花はスプーンを手に取った。白玉を掬って口に入れると、いつもより心が弾むような、鮮やかで楽しげな味がした。
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