3人が本棚に入れています
本棚に追加
潜降13m ツナギ
あの日から3日が経ち、意外にもすぐに普通の生活を取り戻した。
そんな時、私にとっての天敵がやってきた。
+++
++
[ いらっしゃいませ ]
[ オイル交換お願いします。あと柿沢桃さんいますか? ]
[ ああ、事務所の中にいますよ。あちらにどうぞ ]
++
+++
—ガララ
「おお、いた、いた! 久しぶりだな」
「あ、小早川さん。お久しぶりです。お元気ですか? 」
小早川さん。
私より4つ上の研修生。
実習生のときは後輩の私にいろいろ『指導』をした人だ。
『先輩方の飲み物買ってこい』『お酌をしてまわれ』というね。
「近くに寄ったもんでオイル交換でもしてやろうと思ってね。当然安くしてくれるだろ?ところで、お前、ちゃんと仕事できてるの? 」
「はい、一応。うちはほとんど自動車保険で難しい保険とかないですし.. 」
「は、そうかよ。ま、気楽なもんだな」
「 ....」
「ところでさ、俺は椅子に座ってもいいの? ふつう『どうぞお席へ』とか言うんじゃねぇの? 」
「すいません、失礼しました。どうぞお席に」
「それに、お茶ねーし」
+++
++
[ 相変わらず、気がつかねー奴だな! ]
[ ....すいません ]
++
+++
「いま入れます」
「冷たいのがいいね。ある? 」
「はい、麦茶でよければ」
—カチャリ、トン、トクトクトクトク..
やたらと音だけが鳴るこの麦茶を入れる時間がもどかしい。
「どうぞ」
「あのさ、あさっての夜、浅野さんと寺内さんで飲みやるんだけど、おまえも来い」
「あの、ちょっとその日は用事があって」
「おまえさ、わざわざ先輩が誘ってるんだから、少し顔出して酌をするくらいできないの? 」
+++
++
[ —顔出して酌をするくらいできないの? だからダメなんだよ。変わんねぇな! そういうところは! ]
[でも.. ]
『ちょっと、太刀くん、いいかな。 』
『はい、なんでしょう、社長 』
『 悪いけど事務所に行って、お客様に伝えてきてくれるかな 』
++
+++
「でも.. 」
「『でも』じゃねぇんだよ、だいたいよ、おま—」
「お客様、すいません。ちょっと、今、補充用のオイルが切れてしまいまして。すいませんが、この先、まっすぐ行って通りに出ますとガソリンスタンドがありますので、もしアレでしたらそちらで.. 」
「なんだよ。なら最初から言ってよ。待たせておいてさ! 」
+++
++
[ 相良くん、こっちの車、オイル交換ね。やっておいてー! ]
[はーい、了解です! ]
++
+++
「おいっ、なんだよ。あっちの車、オイル交換って言ってるぞ! あるんじゃないの? 」
「いろいろ気が付かない鈍なのは、あんたの方だろ。いいからさ、オイル交換ならガソリンスタンドでやって、どうぞ。」
「な、なんだよっ。おまえら! 」
小早川さんはドアを激しく開けて出ていった。
「太刀さん、あんな事.. いいの? 」
「いいの! いいの! だって、社長がそうしろって言うんだから」
「お父さん.... 」
****
シャッターが降り、今日の仕事が終わった。
みんなが帰っていく。
「おつかれ、桃ちゃん、そっちで社長が呼んでるよ」
工場に行くと、手がオイルまみれのお父さんが言った。
「なぁ、桃、ちょっと手伝ってくれ」
「うん」
「このミッションだけ決めておきたいから、俺が『よし』て言うところまでジャッキを上げてくれ」
「うん」
「まずは、服が汚れるかもしれないから、資料棚の横にあるツナギを着ておいで。そしたら始めよう」
更衣室でお父さんが着ているものより色が濃いツナギを着た。
ツナギは少し大きくダボついていた。
「これでいいかな? 」
「ああ.... 」
「 ..変?? 」
「 いや ....始めようか」
・・
・・・・・・
「もう少し上げて。はい。いいよ。そこで止めて。はい、いいよ、OK! 」
私は車の下で作業をするお父さんを時々のぞき込んだ。
「なぁ、さっき、おまえがツナギ着て出てきたときな、おまえはやっぱり雪絵似だなって思ったよ」
「うん」
車の下に潜ったまま話は続いた。
「俺がこの会社始めた頃、人手が足りなく忙しくてな。そしたら雪絵がツナギ着て、何か手伝おうとするんだ。案の定、あいつにできる事なんてほとんどなくて、結局、ただ今のおまえみたいに俺の近くで見ていたよ。
でも、俺はそれでよかった。
黙って見ているあいつの前でいつもよりがんばれたからな。うまく言えないけど、おまえもそういう子なんだと思う。だからな、いろいろと ....きっと大丈夫だよ、おまえなら」
「 ....」
・・・・・・
・・
ミッションの仮止めが終わると、お父さんは家に帰った。
私は、ただ『また明日、いい日になるといいな』って思っていた。
最初のコメントを投稿しよう!