0人が本棚に入れています
本棚に追加
雨の匂いがした。
会社の通用口を開ければすぐに喫煙所だが、今は誰もいない。駐車場にコンビニにビル。道路だってコンクリートに舗装されている。土なんて通路を抜けた向こうにある街路樹の根元くらいにしかないのに、いつもと違うその匂いを雨と土の臭いだと判断するのはどうしてなんだろうか。
手にした袋をゴミ捨て場に運ぶ。トタンの屋根の下だけ雨が遮られた別空間として四角く閉ざされている。バタバタと雨どいを伝って落ちた水音が響いていた。
そこを通り過ぎたとき、ふと甘い香りを感じた。香水、というよりは少し甘く、尖ったところのない丸い香り。強いて言うなら、女性のシャンプーの香りにどこか似ていた。けれども当然そこには誰もおらず、残滓だけがただ甘く香る。その香りがやけに鼻に残った。
一瞬の邂逅、というのはやけに魅力的に感じることがある。たった一瞬目に入った人、たった一言声を交わしただけの人、たった一日過ごしただけの人。長い人生のほんの一瞬が交わっただけでそれからの生活に大きな関わりがあるわけでもないはずなのに、人生が変わってしまう。
そういう話をすると、運命の人、という言い方をする人がいるだろう。だが、それが実際の人でなくても構わないのではないのか、というのが僕の持論だ。僕にとってのそれは一回嗅いだだけの香りだった。
少し大きなビルの一角に僕の会社の事務所はある。自社以外も塾や病院、銀行なども入っているため、取引のない相手も多く、顔も知らない特定の個人を探すのは難しい。
だから、一度嗅いだあの匂いが誰かの香水だったとして、それを確かめる術はなかった。一つ一つの店舗や事務所を歩いて回るわけにもいかない。あの香りが今も記憶の中で漂っているというのに、自分のできることといえばその香りがどれほど甘かったかということを反芻することだけだ。
実体のないその香りに想像ばかりが膨らんでいく。あれは誰かの持っていた匂いの強いアロマか何かの残り香なのではないだろうか、とか、いいや綺麗な女性のシャンプーの香りなのだ、とか、原点に帰ってやはり香水なのだ、とか。
そんな風に考え始めてから、自社のゴミを捨てに行くのが幾分楽しくなった。そして向かうたびに思うのだ。次こそはまたあの香りと出逢うことができるのではないかと。
たかが香りだというのに妄想が逞しすぎるきらいがあるが、そうやって夢想することは自分だけの秘密基地を考えているようなものだ。誰かに害を与えないちょっとした秘密を抱えるときの背徳感と優越感に似た高揚は、誰しも経験があるのではないだろうか。
ただ、あの香りがどう自分の心を揺さぶったのかということはよくわからない。それでも雨になると思い出してしまうのは、一体なぜなのだろうか。特徴的な香りだった、というわけでもないというのに。
「篠原さん」
ぼんやりしていたら、後ろから同僚に声をかけられた。
「ああ、土屋さん」
「この書類なんですけど、ここの数字が……」
俯いた彼女の長い髪が滑り落ちて、露わになった白い首筋に目が行く。ともすればセクハラになりかねない自身の目を引き剥がして、彼女の指差す数字を見た。
「あれ? 確かに違ってますね、ちょっと確認して連絡とってみますね」
「お願いします」
体を起こす一瞬、ふわりと香る髪の香り。女性らしい甘いそれはあのとき嗅いだ香りとどこか似ていて、でも少しばかり違っているようだった。
いい香りがしますね、と言うのはセクハラじみているかな。開きかけた口を閉ざし、デスクへと戻っていく彼女の長い髪が揺れるのを、ぼんやりと眺めていた。
その日、夢を見た。
土屋さんの夢だ。自分は傘をさしていて、隣に土屋さんがいた。しとしとと降り注ぐ雨が傘に当たって跳ねる。パタパタと鳴る音が響く傘の下、彼女がこちらを見て笑った。彼女は記憶に残っているよりもずっともっと美人に見える。さばさばとした性格とテキパキと仕事をしている姿が印象的だったが、こうしてまじまじと見れば健康的な色気のある女性だった。
土屋さんは長い髪を耳にかけ、それからちょっとだけ背伸びをした。自分の唇に、彼女の唇が触れる。離れるときあの日の忘れられない香りが鼻を掠めて、ばくりと心臓が音を鳴らした。
視線はゆるりと弧を描いた唇に、思考はあの日の香りにすっかり囚われていた自分を解き放ったのは、朝の目覚ましの音。
そうして迎えた朝は、なんだか甘酸っぱいような気持ちと、同僚を食い物にしてしまったような寝覚めの悪さとが混ざり合った何とも言えない感情で満たされていた。天井を見上げながら、両手で顔を覆う。いたたまれない。
「……土屋さんごめんなさい」
誰に聞かれるでもないのに、小さく呟く。本人に直接謝るなどできるはずもない。純粋にスケベな夢だったらこんな気まずい気持ちにはならなかっただろう。溜まっているんだな、と自己処理をすれば済む話だ。
でも、ただキスをして、いい匂いにドギマギしただけの夢というのは、逆に変態じみたいけない好意を抱いているような気持ちにさせられた。
その原因を追求するには朝というのはいささか短すぎた。普段から、その日のニュースを見ながら身なりを整えて、電車へと走るような生活をしている。朝食すら削ってギリギリまで眠ろうとしている生活では、物思いに耽る時間すらも十分には存在していないのだ。
そして、人にとって都合の悪い偶然は面白いほど重なるもので、飛び乗ったエレベーターには土屋さんが乗っていた。
「おはようございます」
にこりと微笑む彼女の唇に、つい目がいってしまう。今、自分が思っているように笑えているだろうか。いけない、と視線を逸らしながらおはようございます、と挨拶を返して、同じようにエレベーターの出口の方向を向く。ここがエレベーターでよかった。彼女の方を向いていなくてもおかしくない。もし顔を見ていたら、また自然と唇に目が吸い寄せられてしまいそうだ。
「今日は雨が強いですね」
「そうですね。梅雨の時期はなんだか気が滅入りますね」
ありきたりな世間話をする。
密室の中、あの香りに似た匂いが広がっているような気がした。そんな強い匂いではないはずなのに、そればかりに気がいってしまう。でも、あのときの香りはもう少し。
ウィイン、と独特の音がしてエレベーターの扉が開いた。閉じられた空間が崩壊し、ハッと我に返る。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
彼女の横を通り過ぎると、甘い香りがひときわ強く香った。思わず振り返れば、バチンと目が合う。土屋さんはちょっと驚いたように目を瞬かせ、それから少しはにかんだ。
たった一度嗅いだ匂いに、どうしてこれほど翻弄されるのかわからない。そのせいだろう、土屋さんとのイケナイ夢は一度では終わらなかった。毎日連続してというわけではない。それでもけっこうな頻度で彼女は現れた。夢の景色はいつでも雨で、雨の匂いと彼女の匂いが混ざり合って、あの日の匂いに近づく。
けれど初めて夢に出たときとは違って、あの日の匂いにはならないまま朝が来る。
現実の彼女の私生活なんて知らないし、二人の間の距離が縮まっているわけでもないのに、一方的に重ねる逢瀬。こんなこと本人に言えるはずもなかった。
それでも、土屋さんが隣を通り過ぎるたびに意識してしまう。特に雨の日は彼女の香りを強く感じた。現実の彼女を意識すればするほど、夢の中の土屋さんは実体を持っていった。日増しに、彼女の存在が濃くなっていく。
瞳が黒ではなく茶色がかっているだとか、細い指の桜色の爪にはうっすらとネイルがほどこされているだとか、唇の色は赤じゃなくて少し淡い色だとか、はにかむときに少しだけ困ったような照れくさそうにするだとか、化粧できつく見える目元が、実は柔らかな弧を描いているだとか。そんな、細かな部分に気づいていく。
夢の中の土屋さんが、どんどん現実に近づいてきていた。
「そりゃあ、もう恋だろ」
「恋、なのかなあ、僕は彼女のことよく知らないし」
少しばかり火照った頬をごまかすように、ジョッキを傾ける。口の中に広がるビールの苦みで、うっすら地面から離れ始めた足を引っ張り下ろす。
変態じみた僕の話を、笑って恋だと断じる旧友にしかめっ面をして見せるが、内心ではほっとしていた。馬鹿にされるか引かれるかどちらかだと思っていたのだ。正直自分自身でもどうかしていると思うのだから。
「その土屋さん、って人は、ナシなの?」
「うーん、いい人だと思うよ」
いい人、そう、いい人だ。仕事熱心だし、気が利くし、ちょっと言葉がきつく感じるときもあるが、親切だ。アリかナシかで言えば、大アリだ。自分側には選ぶ権利がないくらい。
「いい人、っていうことは見た目がナシ、とか」
「いや、普通に美人だと思う」
でも、そういうのとは違うんじゃないかな、と言えば、友人はつまらなそうな顔をした。
「そんなに意識するなら、もうよくない?」
「だって、僕は彼女のことを知らない」
増えていく情報は目に見えることばかりで、深い話をしたこともなければ個人的に会ったこともない。僕の知っている土屋さんは、夢で逢うあの土屋さんだった。そんな血の通っていない理想にも似た何かを指して、恋だと表現するのは土屋さんに失礼なんじゃないだろうか。本名だって、下の名前がすずねという名前だということは知っているが、どんな漢字を書くのかすら覚えていないのだ。
そんな僕に、友人は真面目だなぁ、と一つこぼした。
友人とは居酒屋の前で別れた。飲み屋の続く繁華街を抜けて最寄り駅へと向かう。ふと視線がある一点に引き寄せられる。行き交う人の中、彼女の周りだけ空間が切り取られたかのようにはっきりと認識ができた。
「あ!」
上げかけた手を下ろし、名前を呼ぼうとした口をつぐむ。
彼女の隣には見知らぬ男性。二人は楽しそうに話をしていた。目を合わせるために少しだけ上を見ている土屋さんに、男は笑みを浮かべながら相槌を打っている。
そこにはいつものようにテキパキと仕事をこなしている彼女の姿はない。目をきらきらさせて、まるで少女みたいな顔をしていた。
「恋人、かな」
恋愛だとしたら、なんて早い失恋なんだろうか。さっきまでそんなんじゃないと否定していたくせに失恋だなんて言い方はおかしい。分かっていながらもちりちりと心の端が焼け焦げる感覚を無視できるほどシラフではなかった。
二人が駅の前で別れる。地下鉄への階段を降りていく男の背中が消えてしまうまで、彼女はじっと見つめていた。その姿はなんとなく寂しそうで、勝手に共感を覚えた。しばらく立ちすくんでいた彼女は、元来た道を戻っていく。
彼女が完全に見えなくなったのを確認し、自分もホームに向かう。先ほどの男が携帯端末をいじりながら電車を待っていた。
土屋さんの恋人らしき彼を、バレないように横目でじっと見つめる。彼女より五歳以上は年上だろうその男の顔立ちは整っている。二十代のころは、いや、今も十分にイケメンと呼ばれる部類に入る。若い頃はさぞかしモテただろう。服のセンスだって、悪くない。むしろいい。僕はそういうことには疎いから詳しいことはわからないが、かなり質のいいものだろうことが窺える。つまり、金もある。こんなスタイリッシュでお金があってイケメンの年上が、彼女の好みなのだろうか。
彼の顔がふっと緩む。土屋さんからの連絡でも入ったのだろうか。そう思った理由は簡単だ、彼は愛情に満ちたとても優しい眼差しをしていた。甘さを含んだその笑みは、大事な人に向けるものだと直感的にわかった。
ああ、男として敵わない。スペックが段違いだ。胸に湧いた薄暗い気持ちが、嫉妬という名前であることはさすがの僕でも気づいていた。
目の前に敗北が見えていたからといって、はいそうですか、と気持ちは整理できないようだ。それからも夢の中に土屋さんは現れた。厳しい現実をよそに、夢の中の土屋さんは僕に優しく微笑みかけてくれて、キスをしてくれる。
なお悪いことに、夢の中の彼女の浮かべる表情にバリエーションが増えた。あのときと同じだ。あの男に向ける、少女みたいな顔が自分にだけ向けられる。夢を見ている間はどきどきして、足元が浮き上がるような気持ちになる。
だが、当然のように目覚めてしまえば残るのは虚しさばかりだ。いつの間にか、彼女の名前を漢字で書けるようになっている。澄々音。音の響きも漢字も透き通っていて綺麗だ。失恋とともに恋を知ってしまったなんて、どれだけまぬけなんだろうか。
見ているのがスケベな夢でなくてよかったと今になって思う。もし今そんな夢を見たら、きっとまともに顔を合わせられなかった。スケベな夢でなくても気まずいのに。
「篠原さん」
土屋さんに呼ばれて顔をあげる。夢の中の彼女は、自分のことを新平さん、と名前で呼んでくれるようになった。でも現実の彼女は当然、篠原さんだ。
「先日言ってた件ですけど」
「ああ、それね」
二人の間にあるのは仕事の話だけ。
「あれ、篠原さん、それ」
彼女が自分の鞄からはみ出ている本を指差す。お気に入りの作家の本だ。普段はハードカバーの本を持ち歩きすることはないが、今回は特別だ。先が気になりすぎて通勤時間も読んでしまった。
「あ、うん、ファンなので」
「ほんとですか! じゃあ、この一個前に出た本の映画も見ましたか!」
目の前が、チカチカした。彼女の笑顔が、自分に向けられている。目がキラキラ輝いて、こどもみたいにはしゃいでいる。それは、あの夜に見た笑顔と似ていた。
「見てないな、いつやるんでしたっけ」
「もうやってますよ! あ、見てないんだったら、よろしければ一緒に……」
そこまで言って、彼女は言葉を区切る。それから、少し申し訳なさそうにする。自分だけに向けられたいっとう可愛い表情が消えたことが、そのときの僕にとってはただただ悔しかった。だが、そんなことを考えていたのも一瞬だ。
「……えっと、私と見に行くのいやじゃなければ。私の周りあんまり一緒に行ってくれる人いないんですよね」
当然、答えは一つだった。
「あー、面白かった! 特に最後が最高でしたね、そう思いませんか!」
矢継ぎ早に言う彼女の言葉に頷く。映画は最高だった。原作の雰囲気を崩すこともなく、たったの二時間にきれいにまとめて落とし込んであった。隣で興奮気味で話す土屋さんは、いつもの倍以上に言葉数が多い。会社の外ではいつでもこうなのか、それとも映画がそれほど楽しかったからなのか、はたまた両方なのか、今の僕では判断がつかない。
「ね、せっかくなんでもう少し話したいですし、ご飯とかどうですか」
「……えっと、いいけど、彼氏に僕怒られませんか?」
彼女は目をぱちぱちとさせた。
「彼氏……? 私、彼氏いませんけど」
あれ、と首をかしげる。
「え、でも、前男の人と二人で歩いてたのは……イケメンの……」
彼女が、あ、と目を見開く。そして、視線を落として照れくさそうにした。今日は彼女の見たことのない顔をたくさん見ている。脳の容量も心の余裕もいっぱいいっぱいで破裂寸前だ。
「それ……叔父さんです」
「叔父さん?」
「はい。私叔父さん大好きなんで、今もよく一緒に飲みに行ったりとかするんですけど……見られちゃってたかぁ」
恥ずかしいな、と土屋さんは笑った。
「可愛い」
するりと口からこぼれ落ちた。口元を慌てて押さえるが、もう遅い。彼女が大きく目を見開いて、それからその顔が赤く染まっていく。何とも言えない空気が流れた。
「や、だな、篠原さんそんなこと言うタイプだと思わなかった。びっくりした、案外そういうことも言うんですね」
いつもよりも早口で、ところどころほつれた敬語。動揺する彼女が、ますます可愛いらしく見えた。
「僕も、僕も彼女いないんで」
ようやく、それだけ言えた。場違いだっただろうか、嫌な顔をされていないか窺えば、こっちを見上げる瞳が揺れている。それでも、夢の中と同じようにキスをすることは僕にはできなかった。人目のあるところでキスをするのは、恋愛下手な僕にはあまりにハードルが高すぎる。
土屋澄々音という人を、僕はまだよく知らない。けれど、今からきっと知っていくことができるだろう。自室でくつろぐ彼女に目を細める。
「梅雨の時期、篠原さんは滅入るって言ってたけど、私は割と好きなんです。雨音がまるで音楽みたいじゃないですか?」
「随分ロマンチックだね」
でも、そう思ったら確かに雨も悪くない。雨だから、という理由で自分の部屋に彼女を呼んでゆっくりすることもできるし。
「音楽が好きで。あと……音楽みたいっていうのは、叔父の受け売りなんですけど」
一体どんな音楽が好きなんだろうか、好きな曲を教えて欲しい。詳しく尋ねようとしたときに、彼女が鞄から何かを取り出した。その手の中には、小さな箱。それを彼女の細い指が弄んでいた。
「あれ、煙草吸うんですか?」
「あ、はい、煙草ダメですか?」
「貰い煙草をたまにするくらいだけど、大丈夫だよ」
そう返すと、彼女はスリムタイプの煙草を唇に挟んだ。
「最近まで禁煙してたんですけど、またはじめちゃった」
土屋さんは苦笑しながら煙草に火をつけて、ふぅ、と煙を吐き出した。
「あ」
あることに 気がつき、僕は窓をあけた。最近は彼女に夢中でずっと忘れていたことが、今まさに頭の中によぎったのだ。彼女がそれを見て慌てて立ち上がる。
「すみません! 部屋に匂いがこもりますよね! 雨だから吹き込むかな、と思ったんですけど」
必死の形相で謝っている彼女の肩を軽く押して、もう一度座らせる。咎めたかったわけではないのだ。
窓から中に流れ込んできた風が雨の香りを運んできた。
そうして僕は、思わず笑ってしまう。彼女は不思議そうに僕のことを見ている。確かに、僕の論が正しかったことが証明された。
「あぁ、足りなかったのは煙草の匂いだったのか」
あの日の香りが、そこにあった。
最初のコメントを投稿しよう!