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夜散歩
これは僕が幼い頃に聞かされた話。
古来より、この民家では暗い夜道を一人で歩いてはならない。何故なら己の影が奪われるから、そして影を失った者は静かにその存在すらも徐々に消え去ってしまう。
こんな話を歌のように語り続けられている。
当時、僕は影と言われてもピンと来なかった。影は日中にその姿を現し、陽の下で付き纏う。それぐらいの認識しか持ち合わせていなかった。その存在がどれ程掛け替えのないものなのか消え欠けている今になってからこそ静かに思う。
ーー
中学生半ばの冬。夜の事だった。なんだか妙な音が屋根を鳴らしていた。僕は薄い羽織で表へ出てみる。すると一面細々とした白い粉末が辺りに降り積もっていた。初雪だった。どおりでいつもに増して身体が冷えるわけかと思った。身体を震わせながら敷地を徘徊する。履いていた下駄はいつもなら地面でカランコロンと独特な音を鳴らすが、今日に至っては鳴き雪と化する。
天を見上げると鋭い氷雨が槍のように降り注いでおり、なんだか夜空に襲われている気分になった。それでも僕の心は少し踊っていた。鼻歌を交じらせながら白い道を歩む。
いつの間にか敷地を離れ、屋敷通りへと脚を運んでいた。各々の屋根には降り積もる雪が斜面で地へと落下していた。山奥に位置するこの場所では毎年目にする変わらぬ白景色だった。
しかし、ふとすぐ近くで見知らぬ気配を感じ取った。そっとその気配へ目を配った。すると飛びついた光景に僕は息を呑んだ。そこには着物を着た可憐な雰囲気を纏った女性と思しき人物が僕に手招きをしている。なんだ、と思い目を凝らす。
「ちょいとあんさん、随分と綺麗な顔立ちをしているね。見た所、少年か少女か見分けが付かないよ。まぁどちらにしてもべっぴんな顔立ちに違いない。この村の住人かい?」
僕の視界はぼんやりとしていた。囁く声の主は提灯の灯りが逆境となり、よく姿が伺えない。呼び名も妙に取れる、西の出身なのか。
「はい。そちらの方は見慣れないお召し物を纏われておりますが、この村の住人ではないのですか?」
「ええ、この着物はお手製の物でね。いやしかし、この吹雪の中よくそんな薄着で表へ出向けたものね。今だって身体がずっと震えているじゃないか」
「はぁ」
「この民家では一人で夜の道を歩くと言う事がどういう事がわかっているのかい?」
「はい。幼少期から耳にタコが出来る程、僕はただの迷信だと踏まえてます。しかし、それで言えばあなたにも当て嵌まるのではないでしょうか」
すると、女性はクスクスと嘲笑う。
「迷信ね。わたくしは宜しいのよ。そっち側の者ではないもの。でもあんさんはどうでしょう」
女性はそう言って鳴き雪を鳴らせながら僕の方へ歩み寄った。そして間合いでピタりと脚を止めた。
「あら、近くで見ると一層可愛らしい顔立ち。まだお若いのでしょう。わたくし、その表情がたまらなく好きなの。もう少し近くで拝見したいわ。さぁ、あなたからもこっちへいらっしゃい」
なんだろうか、僕は女性の思惑通り脚を進めてはならない気がした。しかし、近くで見れば見る程その可憐さは増すばかりだった。女性は黒く長い髪に赤い着物を羽織っており、袖から真っ白な二の腕を覗かせ僕を誘惑する。顔立ちも美しく思わず虜になってしまう。
やがて吸い込まれるように僕は一歩雪を鳴らす。女性は、はぁ、と色気声で吐息を出現させる。その白い吐息が僕の顔をふわりと覆った。気付けば言われるがままその女性の側まで歩み寄っていた。
すると、白い二の腕は鋭く僕の腕を掴み、側の障壁まで追いやられた。
「何をされるおつもりですか」
僕は咄嗟に口にする。しかし、女性の頬はこの気温とは裏腹に少し熱を帯びているように見える。
「あんさんが悪いんよ。あんさんがわたくしを魅了するからわたくしもその気になってしまうわ」
そういうと女性は柔らかい動きで透き通るような白い手を僕の身体に這わせ、ひらひらと指先で僕の股間を弄り始めた。
「あんさん一人でこの場所を訪れた事、わたくしは一種の運命を感じておりますわ」
徐々にその指遊びは激しさを増し、みるみる僕の股間を膨れ上がらせる。目の前の光景は真っ白な雪景色、対象的に僕の感情には灼熱が入り混じっていた。火照る下肢を無理矢理抑え付け何か言葉を発しようとした途端、女性がぱっと指を止めた。
「な……」
僕が一文字言葉を放つと同時に唇に柔らかい感触が覆う。女性は口内から舌で僕の舌を舐めまわし始めた。しゃぷしゃぷといやらしい音を鳴らせながら。これで僕は言葉を発する術を封じられる。抵抗も出来なかった。いや、やろうと思えば出来たかもしれないが。
鼻先から香るものは嗅ぎ慣れた冬季の匂いと嗅ぎ慣れない柑橘類の甘い香り。瞬く間に僕は発情してしまう。女性はそんな僕を優しく包み込むようにして抱く。なんだか下腹部から冷たい感触が当たる。見ると、また滑らかな手際で今度は僕が穿いていた衣類の中を直接手を忍ばせる。やがて冷え切った指先は性器をそっと握り、ゆっくりと動かす。
相変わらず口の中も慌ただしい。女性は僕の舌尖部に唾液を垂れ流しながら吸い込むような音を立てる。僕より背が低い女性はいつの間にか僕が見上げる形になっていた。身体も完全に密着させ、背の障壁が衣類と摩擦する。
満ち足りた表情を浮かばせながら女性にされるがままとなり、やがて熱を帯びる下肢から一粒の涙が溢れる。僕は空間を翻すように果ててしまった。
「あらあら、もう果ててしまわれて」
色声が虚しく耳を通る。女性は性器から手をぱっと放す。それと同時に僕の臭覚が過敏に反応を示した。自身の独特な異臭に違和感を抱く。なにかがおかしい、と感覚的に思い恐る恐る性器を直視した。すると本来なら白く垂れ流されてる筈の液体が黒く淀んで視えた。
女性は密着させた身を引き、すらりと踵を返す。僕は咄嗟に息を吐いたが何故か声が細くなっていた。
「何をしたんですか」
「いえ、あんさんが迷信だと謳われるものだからつい、ね。それより妙に身体が軽くなったと感じないかい?」
そう言われれば、なんだか自身の動きがぎこちなく思う。まるで、今まで身体にあった特定の物が失われてしまったように動作に張りが出ない。
「まさか、影……」
「そうそう、容姿だけではなく頭脳まで出来が良いね。察しの通り、わたくしはあんさんから『影』を抜き取った。随分と長い間やってなかったけど感覚は生きていてホッとしたわ」
僕は遂に声すらもまともに出せなくなっていた。細胞が一部ずつ失われていく中、去り際に女性は呟く。
「あんさんがその気にさせるから、あんさんが迷信などと謳うから、まぁでも、また新しい肉体を経て現世へいらっしゃい。その時はどうか、自身の影を大切に」
もう鳴き雪の音すらも聞こえない。それは聴覚が失われてしまっているのか、立ち去る瞬間の女性の姿も痩けた屍のように視えた。それは視覚が失われてしまっているのか。或いは、あの女性そのものが……。
ーー
僕の身体はみるみると朽ち果てていく。この瞬間でも理解に苦しむ、影が欠けると何故身体が滅んでいくのか、何故、自身はこのような目にあってしまったのか。
幸いまだ思考する細胞が生きている。僕は出来る限りの思考を繰り広げた。すると幾つもの案の中で一つの疑惑が生まれた。もしかすると影は人間の身体を構成させるうえで重要な一部なのかもしれない。
それでも、確信に変わる事もなく、全細胞は雪崩のように朽ちていく。綺麗な雪化粧が黒く塗り潰されていくような、そんな虚しい感覚だけが最期に過った。
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