ついてない男

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今日はついてない。 何がついてないかって?もう全てだよ! 朝から嫁さんと喧嘩しちまうし、道で犬のクソを踏んじまうし、バスは目の前で発車しちまう。 おかげでいつもの電車に乗り遅れて会社に遅刻して部長に7分も説教されちまった。 そのせいで調子が崩れたのかいつもはやらねぇようなミスの連発で参っちまうよ。 そんなこんなでなんとか仕事をこなして後1時間もすりゃ退勤できるって時に胸元のスマフォが震える。 チラリと画面を見れば嫁さんの名前が液晶に浮かんでいた。 ったく、仕事中はかけてくるなって言ってるってのに……なんて眉をしかめながら電話に出る。 「阿部美弥子様の旦那様でしょうか?」 「はい?そうですが、どちら様でしょうか?」 妻が出ると思っていた電話から聞こえたのは若い女の声で思わず素っ頓狂な声が出てしまった。 「奥様は先程事故に遭い、今若松総合病院で治療を受けています。すぐにこちらに来て頂けますか?」 「もしもし?聞こえますか?」 「阿部君?どうかしたのかね?」 ハッ、と短い息を吐き出してから「すぐに向かいます!」と言いスマフォを胸ポケットにしまう。 鞄に机の上の書類を乱雑に突っ込んで部長に「妻が事故に遭ったのでお先に失礼します!」と言ってオフィスから出る。 後ろから部長が何か言っていた気がするけどとにかく今は急いで病院に行かねばならない。 ここから病院までは車で15分程、タクシーを待っている暇なんてない。 早く、早く美弥子の元へ行かなければ……! 最後に美弥子と交わした言葉が頭の中をグルグルと巡る。 『なんでもっとちゃんと聞いてくれないの!』 『俺だって忙しいんだよ!』 『大事なことでしょ!?貴方もうすぐ』 「うわ!」 道端に大きな石が落ちていて転びそうになった。 こんな時までついてないなんて勘弁してくれよ!と内心でぼやきながらなんとか病院へたどり着く。 受付に行って息も絶え絶えに声を掛けると廊下を歩いていた細身の女性が答えてくれた。 「あの、美弥子の、ハァ……阿部美弥子の旦那です!ハァ、ハァ……妻は、妻は無事なんでしょうか!」 「阿部様ですね、お待ちしてました!こちらです」 女性の後ろを歩きながら漸く息が整った頃、病室に通された。 「阿部さん、旦那様がいらっしゃいましたよ」 そう言ってドアをノックする女性を押しのけて部屋に入る。 「美弥子!」 病室のベッドに座った美弥子がこちらを見てニッコリと微笑む。 「貴方、来てくれたのね」 「当たり前だろう!無事なのか?」 ベッドに近づいて美弥子の肩に手を乗せるとあるべきものが無いことに気が付き血の気が引いた。 「まさか……」 白い顔をした俺が見ている先がわかったのか美弥子はお腹をさすると「大丈夫よ」と呟いた。 その後「あのね」と俺を見上げて美弥子が事故の前後のことを教えてくれた。 夕飯の支度をしようとしたときに、仲直りの為に俺の好物のカボチャの煮物を作ろうとしたこと。 買い物の帰り、信号待ちで事故を起こした車が飛んできたこと。 車の下敷きになって怖かったこと。 病院に運ばれて緊急手術になったこと。 生まれてきたのは男の子だということ。 「お医者様がね、あの事故で母子共に無事なんて奇跡だって」 美弥子はそう言って幸せそうな顔をして笑った。 「奇跡……そうか、良かった。本当に良かった。ありがとう、美代子。あの子を守ってくれたんだな」 話を聞いた俺は膝の力が抜けて思わずその場に尻餅をついてしまった。 ボロボロと目から溢れる雫が頬をつたって落ちる。 「貴方、朝はごめんなさい。もうすぐ父親になるのにそんなんじゃなれないだなんて言って」 ベッドから身を乗り出し俺の頬をタオルで拭う美代子。 「貴方、もう十分お父さんの顔してるわ」 その言葉に更に涙が溢れた。 「ねぇ、泣いてないで赤ちゃん、見に行きましょ?私もまだちょっとしか会ってないの」 そう言う美代子に連れられ新生児室へ向かった。 そこにいたのはすやすやと眠る愛しい我が子。 「阿部さんの旦那様ですか?」 ガラス越しに息子を眺めていると1人の医師が声を掛けてきた。 「えぇ、そうです」 「産婦人科の田中です。阿部さん、赤ちゃん抱っこしていかれますか?」 ニコニコと愛想の良い医師に頷くと新生児室の中に通された。 用意された椅子に座って、医師の指示に従いながら息子を抱きかかえる。 綺麗な布越しに触れる身体は温かくて、柔らかくて、守らなければいけないものだと本能が告げてくる。 「この度は本当におめでとうございます」 「ありがとうございます」 祝福の言葉にお礼を言ってから息子の眠る顔を間近で見る。 「あぁ、可愛いなぁ。今日の嫌なこと全部吹っ飛んじまった」 「嫌なこと?」 不思議そうに首を傾げる美弥子に今日家を出てからのことを話した。 「あら……ふふっもしかしたら私達の不幸を貴方が先に使ってくれたから無事だったのかしら?」なんて笑う美弥子に俺も笑う。 「そんな事でお前達が無事ならいくらでも使うさ」
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