Mr.Lonely black dog,Miss Tiny stray cat.

6/857

46人が本棚に入れています
本棚に追加
/857ページ
 月曜日、いつも通りに仕事に行った。新婦の有希乃ちゃんは新婚旅行に行っていて休みだったけれど、それ以外はいつもと変わらない毎日が始まるはずだった。院内で“彼”に遭遇するまでは。  私が勤務するリハビリテーション科は、二階の一番奥にあり、そこの事務を受け持っている私は、訓練室内にあるカウンター席の中で、一日の殆どの時間を過ごす。紙カルテだった頃は、リハビリを受ける患者さんのカルテを病棟に戻したり、記入に不備がある指示箋を担当医の医局に差し戻しに行ったりする仕事があったのだけれど、昨年電子カルテが導入されてから、院内を歩く機会がぐっと減った。  それでも全く無い訳では無いので、その日は本当に偶然、そこで行き合った。  勉強会の資料用に療法士が借り受けたレントゲン写真を返却する為に、院内の保管庫へ向かう途中、 「あれ?茉緒ちゃん?」 と、先週末に聞いたいい声の主が、私の名前を呼んだ。恐る恐る振り向くと、白衣姿の遠宮さんが、後ろから近付いて来た。 「…お疲れ様です」  人気の無いリハビリの訓練室周りと違って、今いるのは外来の待合に近い棟の廊下だったので、患者さんも医師も看護師もその他の職員も周りに多勢いて、遠宮さんに名指しで話しかけられた私に、一斉に視線が向けられた気がする。  この間は職場の外だったし特別な状況だったから、偶然出会った人と親しくなってもあまり気にしなかったが、毎日働く職場では、訳が違う。ここで遠宮さんに話しかけられるのは、ステージ上のアイドルが客席のファンに話しかけるのと同じ様なものなのだ。  しかしここはライブ会場ではなく院内の廊下で、目の前にいる人から話しかけられて、無視するのも居た堪れない。そして私は外来の待合を通り抜けて、保管庫のある別棟のエレベーターに乗らなければならないのに、どこへ向かっているのか、遠宮さんは私の横に並んで歩く。 「茉緒ちゃんて、本当にここの職員だったんだね」 「そうですよ」 「制服だと感じが違うね」 「そうですか?」 「どこ行くの?」 「保管庫です」 「茉緒ちゃん、リハビリ科だったっけ。どこにあるの?」 「二階の一番奥です」 「一番奥?」 「医局があって研修室があって、院長室を通り過ぎると非常階段があって、その先です」 「行ったことないな」 「大抵の職員はそうですよ」 「道理で茉緒ちゃんとも、廊下ですれ違わない訳だね」  彼が出向して来る前から私はいて、私は彼を見かけていたのだから、今まではすれ違っても目に入っていなかっただけだと思うけど。  でも、常識的な社会人として、そんなことは口に出さない。 「そうですね。私も殆ど訓練室から出ませんし」 「今度、のぞきに行っていい?」 「え?」 「リハの訓練室」 「あ、はい、どうぞ」  すれ違う人の視線に耐えられなくなった頃、エレベーターの前に着いた。ボタンを押し、扉が開いたので乗り込んだ。  遠宮さんも乗るのかと思い、“開”ボタンを押すが、乗って来ない。 「乗らないんですか?」 「うん」 と言うので、不思議に思いながら、行き先階のボタンを押した。  閉まる扉の隙間から、遠宮さんがひらひらと手を振っているのが見えた。
/857ページ

最初のコメントを投稿しよう!

46人が本棚に入れています
本棚に追加