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夜の曇り空から雪が舞い落ちた。
最初はちらほらと、やがて数多の雪が音もなく湯に落ちては消えてゆく。
肩や腕に触れた雪は冷たさを感じる間もなく、溶けて小さな雫になった。
髪に付いた雪は白く形を残している。
手をかざし、手のひらに雪が落ちるのを見ていた。
空を見上げれば、中空から突然現れる雪がとめどなく降り続けている。岩の向こうに突き出る枝の黒い影もしだいに雪で見えなくなっていた。
「雪だ……」
男湯からつぶやく声が聞こえて、小夜子は耳を澄ました。
古びた小屋の脱衣所とは反対の、川のせせらぎの方へ湯をかき分けて歩く水音が聞こえた。誰に話すでもなくつぶやいたその若い男の声は小夜子の夫、清之介の声だった。
「あれからもう三年も経つのか……」
三年前にも二人はこの露天風呂のあるひなびた宿を訪れていた。桜の花が咲き誇る頃だった。
浅い夜に、月の淡い光の中を、桜の花びらがふわりふわり舞っていた。
月に薄い雲がかかっては陰り、雲が抜けるとまた明るくなる。空を走る雲は速く、風が吹けば遠くの木々のざわめく音と共に花びらが一斉に散り、湯に舞い落ちる。
今よりもずっと気温が暖かく、夜の山から舞い落ちる花びらが、ちょうど今の雪のように見えた。
「あの時は雪ではなく、桜だった……」
川の方を向いているのだろう、小夜子には清之介の声が夜の闇に遠く聴こえた。同じ時を思い出している。小夜子の思いもまた遠く三年前へと誘われていった。
南部地方の豪農の三男に生まれた清之介は親戚の家に仮住まいし、その家から中学に通っていた。その中学の教員をしていたのが小夜子の父であった。
清之介が身を寄せていた親戚家と小夜子の家が近所であり、挨拶に訪ねたのが二人の出会いのきっかけであった。
客間でぎこちなく正座する清之介は他の同級生よりも背が低く詰襟の学生服が不釣合いだったが、気弱な印象はなかった。
教師の前だけで大人しいというは、ひそひそと一緒に来ていた従兄弟たちとふざけあう様子で小夜子にも分かった。
初めて会話を交わしたのもそれから半月、庭の掃除を手伝いに清之介が小夜子の家に来た時だった。
小夜子の家には美しい椿の庭があり、一面に散り落ちた椿の中に、清之介が竹箒を持ったまま立ち尽しているのを縁側から小夜子が見つけ、「どうしたの?」と声をかけると、清之介が振り返った。
花の開ききった椿も摘んでしまってほしいと言われ、
「手折ってしまうのはかわいそうだ、と思って」
と清之介が答えた。
散ってもいない花まで摘んでしまうのは気が引ける、と言う。
小夜子は笑いながら縁側から降り、清之介と赤い花びらが幾重にも重なる八重咲きの椿を前に並んで立った。
「花は見ごろを過ぎたら摘んでしまったほうが来年のためにはいいと母が言っていたわ」
「摘んだ花は捨ててしまうんですか」
「いいえ、母と姉と三人で草木染をするのよ。手ぬぐいや帯留めを」
そういうと清之介はようやく安心したように顔をほころばせて笑った。
その笑顔が、幼くやさしく小夜子の心に響いた。
それから時が過ぎ清之介の家から正式に小夜子の家へ縁談が申し込まれたのが三年前の春だった。
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